包   頭
Bao             tou
パオトウ
2006・9・10
包頭市は市街地が大きく東西に分かれている。
 東の市街地の下車駅はパオトウ東駅で,西の下車駅はパオトウ駅である。
 このふたつの街は建設路という幹線道路で結ばれている。その東西の真ん中、ややパオトウ駅側に
成吉思汗草原生態園という巨大公園がある。
 占有面積770公頃。南北 4k せまくて長い。東西 2.2k  海抜 1034m(1周すると10kを越える)
全国城市中最大的天然草原園である。街中からここに足を踏み入れ、しばらくすると自分が別の世界に突如入り込んだような錯覚におちいる。
シルクロード、敦煌にある鳴砂山も素晴らしかったけど、ここ『響沙湾』の砂漠は砂遊びのスポットとしては、はるかに、『月の砂漠』のモデルともいわれている鳴砂山を凌ぐところだった。ラクダの背にゆられゆられて1時間、シルクロードを旅する商人になったようだ。
9月9日(土)午後。金トンさん運転のブルーメタリックのビュイックに乗っている。
 いまから目指すパオトウまではおよそ2時間のドライブである。

 パオトウ旅遊のいちばんの楽しみは砂漠を見る(楽しむ)ことではあったけど、j実は『黄河』見学にもかなりこだわっていた。

かってNHKの「大黄河」というTV番組を見て以来、中国二大河川のひとつである黄河は宋次郎の奏でるオカリナの音色と共にぼくを魅了してやまない存在だった。

 黄河上流の蘭州では黄河第一橋から黄河を眺め、羊の皮袋で出来たいかだで実際に黄河を1キロほど下った経験がある。(写真1,2)

 2004年5月、鄭州市の北部にある黄河風景区で黄河中流のとてつもなく広い河川敷をホバークラフトに乗って快走した。     (写真3,4)

昨年の11月、済南市の北を流れる黄河下流にかかる浮橋を歩いて渡りながらとうとうと流れる大黄河を眺めてきた。(写真5)

 パオトウを流れる大黄河は、嘗て、匈奴が、そしてチンギス汗が率いる大蒙古軍が氷結し、大地に化した黄河を馬で渡ったところである。

 大草原を蒙古馬で駆けたついでに、パオトウの黄河の流れを実際、自分の目で眺めてみたい、触れてみたいという気持ちがつのっていた。


 ぼくは、何気ないフリをしてハンドルを握っている金トンさんに声をかけていた。

 「金さん、 
包頭 有 黄河(ホン ファ) マ ?」 すぐ返事が返ってきた。

 「
有 有 (ヨゥ ヨゥ)  要看?」  (ありますよ、見たいですか?)

 「
我很想看」(とても見たいですね。)

 
一番、上のあたりがパオトウを流れる黄河

 ところで、黄河の上流、中流,下流とはどのへんをさすのだろうか?

 上流は水源(青海省)からオルドスの河口鎮(托克托)のあたり、地図上ではフフホトと包頭を結んだやや南までをいい。

上流は全体としては流れがはやく、細いけど、標高が高いので、あちこち場所によって凍結する。上流の流域面積は38.6万平方キロメートルで、全河流面積の実に51%を占めている。

、そこから河南省の鄭州にほど近い桃花谷までを中流としている。
 そして、開封から渤海にいたるあたりを下流といっている。

 中流(包頭から南下して鄭州付近まで)は46%、下流はわずか3%に過ぎない。
 
 黄河は中流で大きくこぶのように蛇行(北上)していて、そのあたりの標高差は激しくで冬は凍結する。
 落差の大きい滝もあれば、極端に狭い川幅の場所も有る。

 黄河全体の公式の長さは5464キロあり、そのうち洪水の被害のもっとも大きいところが標高差の少ない下流なのである。
 
 凍結をもっと具体的にあげると、凍結し始めるのは12月のはじめで、解氷しだすのは平均で三月の下旬であるという。

 氷の厚さは、40〜90センチといわれ、凍結している期間は3〜4ヶ月間だけど、実際に、河を渡れるのは氷結し始めてから1ヶ月近くを要するといわれる。

 もっとも、昔はもっと、凍結期間も、氷の厚さも大きかったらしい。だから、チンギス汗の活躍した時代は少なくとも半年ちかくは、馬が黄河を渡ってオルドスの地を駆け回ったのだろう。

 黄河と長江、このふたつの巨大な河川は、4000年の中国歴史を語る上で、
はずすことのできない存在である。もっとも、土砂の少ない南の長江流域(上、中流)は宋の時代までは未開の地域のように言われていた。

 しかし、1948年以降に四川省の成都市郊外で遺跡(三星堆)発掘された。
その時期が紀元前16世紀と言うことがわかり、 そこにあらわれた黄河文明とはちがう、全く別の古代都市の出現に人々は驚いたのだった。

 謎の都市の解明はまだあきらかにされていないが、文明と河川の関係の奥の深さを改めて知らされた。

 ところで長江(6380m)と黄河(5464m)の違いはいろいろある。
 まず、@凍結する、しない。
     A標高差大,小。
     B蛇行の差などの外に
     C水のにごり方がある。しかし、なんといっても
     D水量が違いすぎることである
長江の総流水量の16分の1、流域に供給できる水量は20分の1にすぎないのである。

 黄河流域つまり黄土は昔から農耕に適した土質といわれている。
  人口も、前漢時代には4800万人に達し、当時の中国総人口の80%を占めていた。
  その後人口は減り続け、唐の時代には60%になり、そして、宋の時代から経済の中心が南に移り始めると30%となり、現在は全人口の15%ほどまでに減っている。
 こうした減少傾向にはいろいろな原因もあるのだろうが自然現象としてのひでりが水量の減少を引き起こし、(降雨量の低下)が
『砂漠化』を一層すすめていくことになる。

 そういう自然現象に輪をかけるように、最近では近辺の地区の工業化が進み黄河流域の水を使う量が供給を上回ってきていると言われる。

 それに伴い工業汚染が問題化しているのも事実である。

 最近ではオホーツクへ流れる松花江周辺にある化学工場からの汚染漏れ事件はまだ記憶に新しいところである。

 外交問題(ロシア)になり明るみに出たけれど、中国国内だけならまだ多くの汚染漏れがないとは言えない。
 「そのうち黄河は黒河に名前を変えなければ」なんてことだけは避けなければならない。

 この二つの巨大河川への取り組みこそが未来へ向けた中国の盛衰(命運)がかかっていると言って過言ではない。

 ぼくは黄河を眺める度に、チンギス汗の駆けた、あの時代の黄河が甦ってくるよう願ってる。
 

 (参考文献:西野広倖 「馬と黄河と長城」の中国史 PHP文庫)


 黄河の河川敷に出る道を途中で間違えてしまいスピードウエィを逆走しながら、ようやく念願の黄河に到着した。
 
        

黄河の水に触れ、思い切り小石をなげたり、しばらく遊んだ後ぼくらは包頭をめざしUターンした。
 クルマがパオトウの市街地に着いたのは夕方の6時をすでに過ぎた頃だった。
 車窓から射し込む陽の光はまだ真昼のようにまぶしく、昨日の寒さがうそのような陽気だった。

 「わたしたちの会社に行って見ませんか?」

という金トンさんの声に「ぜひ。」と二つ返事をした。
 というのは、留学生の丁さんが

 『叔父さんは信心深い人ですよ。工場に大きな仏様の像を作りましたよ』
 と言った言葉を思い出したからである。ぜひ見てみたいと思っていた。

 下の写真はその仏像と工場の写真です。

 劉思情社長(丁さんの叔父様)は目下、フフホト市にもに宅地造成中の巨大プロジェクトを展開中でその現場を数時間前に見てきたばかりだった。
 下は既に発売中の一戸建て住宅(2所帯)と10階建てマンション群の模型。



 予約してもらったホテル・
シド大酒店(写真7.8)は新しく出来たばかりの包頭一の高級ホテルだった。

 来年(2007年)にはこの近くにアジア地域では最高級のホテルチェーンである『シャングリラホテル』が開館を目指して既に建物の全貌を見せていた。

 包頭の街は他の中国の城市の再開発とは違い、あたらしい地域に新しい道路をつくり、そこにあたらしい工場、企業を誘致していく街づくりを展開している。

 近い将来、(もしかしたら既に幾つかはそうなっているのかもしれないが)包頭市は内モンゴルの行政・観光・工場・そして文化の拠点になるのでは、とそんな空気を感じた。

 翌朝、ホテルの朝餐で若い団体客に出会った。
 聞けば、広州から飛行機で観光に来たんだと言う。広州の会社の社員旅行(総勢50名)で来たらしい。
昨日、『響沙湾』と『チンギス汗草原生態園』で遊び今日は広州に帰るんだと言う。

 広州〜包頭間の航空路が新しく(?)開設されたから来たんだと言っていた。

 「砂漠遊び」と「草原」というコースは地理的には新疆(シルクロード)や青海(草原)方面よりかなり身近に行ける魅力的な観光コースと言えるのではないだろうか。

 ぼくの知っているかぎりでは、中国人は、眺める観光より、参加、体験型の観光を好むように思う。馬に乗ったり、ラクダに乗ったり、砂漠をオートバイや戦車で駆け巡ったりするのは、かれらの最もよろこぶ遊びなのだ。

 その夜は包頭の(おそらく)高級飯店で金トンご一家(奥様と息子)、奥様や金トンさんたちのお友達の女社長・宋さん、それに劉さんの会社の若い男性・陳さんあと一人の男性を交え賑やかな晩餐会によばれた。

 珍しいモンゴル料理を説明を受けながら戴いた。

 特に、豆腐料理はとても美味しく、日本の豆腐とそっくりだったし、ゆば料理もたしか読み方まで同じ名前、ユバで通じたような気がした。おから料理に到っては京都で食べているようだった。

 どちらかと言うと「食道楽」ではないので食べ物は美味しいか、まずいかしか意見が言えないので食事の時は、話題不足で、いつも招待してくれる中国人には申し訳ない思いである。

したがっていつも「ジェ 是 シェンモ?」「ナ 是 しぇんも?」の繰り返しで会話が繋がっていかないのが我ながら情けない。

 酒は白酒が有名のようだ。長沙の白酒ほど強くはない(38度ぐらい)が後口が幾分、甘い感じがして美味しかった。

  写真は金トンさんご一家と、食事をしたレストラン。 


今日は包頭二日目の朝である。
 包頭の街は空は青く高い。
 聞いていたようなほこりっぽさなどまったく無かった。

いまの季節が、日本の秋と同じく、いちばん良い季節なのかもしれないけど、少し空気が乾いているかな、と思う程度で中国の他の街の空気より好きだった。

 道路幅も広く、殆んどが直線路である。パオトウは工場の町で、何も無いところだと聞いていたが、そんな灰色のイメージなどまったく無く、あたらしい近代都市というイメージを持った。

 7:30 運転手の金トンさんの運転するビュイックがホテルの玄関に着いた。
 午前中は折角来たのだからと、包頭市街から北東へ70km、陰山山脈の五当溝にある内モンゴル最大のチベット仏教寺院 
『五当召』へ案内してくれるという。

 五当召は17世紀後半に創建され、五当とはモンゴル語で柳の意味なんだそうだ。

 山の麓から斜面に沿って数多くの堂が階段状に建っている。

小ポタラ宮と言われているらしい。召とは廟の意味らしく、それぞれの堂はそれぞれに貴重な特色があるのだろうが、そっち方面の知識に乏しいぼくにとっては、その宝物や経典の価値はわからなかった。

 ただ、最上段まで見てみようと各仏堂を数字を追いながら上へ上へと見て回った。

 金トンさんは知っているのかも知れないが日本語で聞いても判らないのに中国語で説明を受けたってさっぱりだと思い聞かなかった。


 明日は最大の目的地大同市に向かうことになっている。今日の教訓を生かして明後日の
『雲崗石窟』と『懸空寺』の見学には絶対に日本語ガイドを頼もうと決心を新たにした。

 それにしても五当召への往復の道中はひどかった。ビュイックは例によって乾いた河底を走っていく。車体はもう土灰をかぶり真っ白だった。

包頭に戻ってから洗車に15分もかかってしまった。左の丘の中腹では大掛りな道路建設が現在進行中だった。(中国は工事に関しては予定が未定だが)近い?将来「五当召」への時間が半分に短縮されるかもしれない。


 一旦、包頭市にもどり昼食を食べ終えたぼくらは、本日の本命である砂漠『響沙湾』へと向かった。

 寧夏回族自治区から流れてきた黄河は、内モンゴルの中西部に入って北へ向きを変える。
 陰山山脈にぶつかった黄河はこんどは東から南へと馬蹄形を描いて流れる。

 
この黄河に囲まれた地帯がオルドス高原で、砂漠草原となっている。
 黄河南岸の
クブチ砂漠には鳴き砂現象で知られる砂丘があり、そこが『響沙湾』とよばれている。

 到着すると、そこには何所から集まったのだろうと思うほどの大勢の観光客がリフトの順番を待っていた。

  二人乗りのリフトに乗り
響沙湾レジャーランド?(正式名称は分からない。)に渡ると、まず、砂が靴に入らないように布袋を膝までつける(有料10元)。長沙からの団体客があり、そのなかに紛れ込んだおかげで無料で借りた。(写真あり)
               


 キントンさんたちは靴をぬいで裸足になっていた。

 丁さんが「風が強いと、眼が開けられません。出来たら、海水メガネが必要です。」
 とのアドバイスがあり、大判のマスクとゴーグルをポケットに忍ばせていた。

 
二つとも快晴、無風の天候のため無用の長物となってしまったが、他のツアー客たちは顔が見えないくらいの大きなマスクにサングラスをかけてラクダに乗っていた。
 ぼくたちは金トンさんの勧めでラクダ乗りから体験することにした。

何年か前、兄達と新疆シルクロードのツアーに参加したとき、敦煌・鳴沙山で700メートルほどの距離をラクダに乗ったことがあったが今日は1時間の砂漠の行軍である。

 もしかして、ラクダが走りだしたらどうしょう、それこそ映画「アラビアのロレンス」を体験できるかもしれない、とひそかに期待をしたが、その通りにいかなかった。

それでも広大な砂漠を上ったり下ったりと移動して、お尻が痛くなるほど乗りまわった。

 途中、駱駝引きの男が「しばらく休憩する。」というので皆(8名ぐらいのグループ)はてっきりラクダから下りるのとばかり思っていた。
 ところが、乗ったままでラクダだけが立ち休憩をするのだという。

 「何で下ろさないのか?お前が休憩してるだけじゃないか?」
 と乗ったままの客たちは一斉にブーブー抗議したけど、駱駝引きは知らんふりを決め込んでいた。

 ラクダを下りる頃はもうお尻が我慢できないほど痛くなっていた。

 こんどは沙すべりに挑戦することになった。これも「鳴沙山」で経験済みだったけど下に下りないと帰りのリフトに乗れないように仕組まれていた。

 この
砂すべりのせいで、翌日の懸空寺ではカメラが使えなくなるという、大変なパニックが起きてしまったのだ。
  
 答えを明かすとこの時,砂糖のような極細の砂がジーンズのポケットの中に入り込んでいて、ポケットに入れたデジカメのレンズ部分にその砂が入って故障してしまったのである。

 

 こうして朝7:30からスタートした包頭(パオトウ)でのイベントは終った。

 内モンゴルの旅は本当に「何から何まで」という一見、意味不明な日本語ではないが、金トンさんたちのお世話になり放しだった。

 はじめは乗物だけ使わせてもらおうかな?と思って甘えたのだったが、これほど
世話になるとは考えてもいなかったのである。

 おかげでとても楽しい思い出に残る旅が出来たことを感謝したい。
 実は、この日はまだ後が続いていた。

  最後の晩餐をしょうと言う。そして、
成吉思汗草原生態園をドライブしながら案内してくれるという。
 かくして、いちばん最初に書いたように、もう時間も遅く殆んど閉園間近になっていた公園を無理に頼んでの外周ドライブとなった。

 しばらくは、ラクダの大群を見たり、造られた草原を、「スケールの大きいものを造ったものだ、と眺めていた。

 走っている時間の長さと延々と続く外の景観がいま公園の中を走っているという通常の感覚をはるかにオーバーしてきていた。
 入るときは、確か、街中から入口があったはずなのに。

そのうち本当に自分が今、何所を走っているのか、もしかしたらパオトウを離れ、郊外を走っているのではないか、と本気で思うようになリ始めた。
 
 やがて、あたりが暗くなり,そこここに動物達が歩いている。全く狐につままれた思考の中に自分がいた。
  どれ位の時間がたったのだろうか、やっと出口に出て我に返った。

 下の写真はパオトウ市の市街地の半分近くを占める成吉思汗草原生態園
 左下に包頭駅が見える、右下(見えないけど)に包頭東駅があり、その上が街。

 帰ってから、そのことを丁さんに話すと、「そうですか、そう言えば金トンさんが言っていましたよ。シラムレンなんか行かなくてもここの草原で馬に乗っていくらでも走れるし、包もちゃんとあるのにね。」と。

 次の訪問地「大同・雲崗石窟」へ