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留学生と行く秋の1日バス旅行「天草五橋を巡る」

         2011年10月30日(日)

鹿児島市日中友好協会  鹿児島大学中国人留学生学友会 共催

参加希望者は陳琳(学友会会長) 080-3990-7160まで。
●参加費は1,000円(昼食は別)
●朝の集合場所は鹿大図書館前道路。6時40分集合。
●コースは下を参照。

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昼食は千巌山で。

千厳山(162メートル)は寛永14年(1637)天草の乱勃発の際、総大将天草四郎時貞がこの山頂で出陣の祝宴を張り、杓子で酒を酌み交わしたと伝えられている。手杓子山と呼ばれていたというが、昭和8年、今の名前が付けられた。その名のとおり、奇岩、怪岩が重なり合って、岩の間には古松や三ツ葉つつじが群生している。目下には天草五橋が目に入り、昭和419月に展望所が完成。宇土半島から大矢野、永浦、池島、前島と天草とへと結んでいる五橋とともに、雲仙、島原、遠くは富岡、口之津、八代海まで見ることができる。中腹の駐車場近くに「キリシタン墓地」があるが、 あまり知られていない。

天草四郎メモリアルホール

天草四郎メモリアルホールに屋上展望所があるのをご存知ですか?
当施設は開館から18年経過しましたが、これまで屋上を開放していませんでした。
このたび、お客様や市民からの要望により、階段の手すり等を改修し、3月19日から

屋外展望所をオープンしました。

展望所からは上天草の絶景が360度見渡すことができます。
ぜひ一度、天気がいい日にお越しください。

生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった[要出典]。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。

島原の乱勃発時は16才程度の少年で、十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、徳川幕府の軍隊による原城への総攻撃を受けて、炎の中で自害したとされる[1]。実際には少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり戦いを指導したとは考えられず、実質的な首謀者は庄屋浪人たちで、彼はその象徴として祭り上げられた性格が強い。しかし、37000人とされる島原の乱の参加者が主と仰ぐカリスマ的存在であったのは確かである。

死後に首を切断されて幕府へ送られたという話もあり、首は長崎の原城大手門前にて晒されたとも伝わる。そのとき幕府側には天草四郎の姿や素性の情報が全く伝わっておらず、原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者の山田右衛門作を除く)にされているため、旗印の近くにあった立派な服装をした少年の死体を天草四郎と断定したと言われている。そのため、首実検を行おうにも、その首自体が天草四郎本人のものかどうかは最終的に分からなかったという。一説には、幕府軍に捕えられた四郎の母は「今ごろ四郎は白鳥になって伴天連の国へ向かっているでしょう」とうそぶいたが、四郎の首を見せられると悲嘆して泣き崩れたとのことである(細川藩資料「肥前国有馬戦記」)。