平成18年4月12日〜5月31日
虹の架け橋
池田公栄・九江学院日本語教師日記
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* 九江の4月の花* ……2006/04/02…
 九江の甘棠湖と九江学院キャンパスにはサクラが咲いた。学院の桜は移植したばかりで、1メートルそこそのの高さに、花だけは精一杯咲いた。甘棠湖の桜は少し年齢がいっているが、これもせいぜい10年ぐらいの樹齢。1930年代に、日本人が植えた旧陸軍病院内のサクラは樹齢も進み、見事である。
 
 サクラはやはり日本。日本の桜前線は日増しに北上のことであろう。

**泡桐**
 日本では桐は見かけるが、泡桐は見ない。学名はPaulonia玄参科Scrophulariaceaeに属し、花は花美供庭園現賞(つまり観賞用の意)、木は木材是家庭的良材(家具財の意)花は百合の花に似ており芳香を放ち、癒される香りでとても心地よい。木は家具材になるほどであるから、年々大きくなる。キャンパス内の木でも大きいのは直径50cmほど。桐という名がついているので日本の桐に似ているのかもしれない。桐ダンスと言えば日本では高級品である。
 写真右:泡桐の近影。木は直径30センチ以上のものもあり、遠くから眺めると、満開のサクラのようにも見える。花の色は白、薄紫もある。

* 九江学院生徒のあれこれ* ……2006/04/02…
学生の生活、主に衣食住と学生生活について写真入で報告します。後ほど
* 九江のサクラ
……2006/04/02…

写真左:九江解放軍病院敷地内の桜
 この桜は年期ものである。九江の解放軍病院はもと日本の陸軍病院の延長である。1930年代にここ九江には日本の民間病院、同仁会病院と陸軍病院があり、自分も幼少の折、学校からこの病院へ慰問に行ったものである。そのとき、日本人が植えた桜が今も咲いている。樹齢も進み風格もある。同様に、武漢大学構内の桜も有名である。ここも、日本人が植えたというので、最近ネット上で賛否の議論がある。方や、日本人が植えた桜に見とれて喜ぶのはどんなものかという意見、方や、そんなに肩肘はらなくても素直に桜を愛でたらよい。という意見。桜には何の罪もない。しかし、戦争という現実が、同じ桜を見ても、傷を思い出すきっかけになりうることを証明している。

 学院キャンパスにも今年になってからサクラの苗を植え、早くも花をつけた。写真右は九江学院正門通りの並木にさいたサクラ。
 中国の墓の研究 ……2006/04/14…
* 中国の墓の研究(2) ……2006/04/14…
* 学生会活動* ……2006/04/24…
**日本文化の日**

 2006・4・19日(水)九江学院学生活動室において、日本文化研究会主催の「日の韻桜祭」という行事が行われる。会は外国語科の学部長挨拶に始まり、カラオケ、踊り、はたまた日本人教師まで登壇させられて、挨拶したり、喉を鳴らした。また、コスチュ−ムクラブや漫才、寸劇クラブも競演し会を盛り上げた。

写真左:ゆかた姿で日本の踊りを披露*日本語学科生(

写真右:コスチュームクラブの競演(侍姿
* 学生会活動* ……2006/04/24…
**日本文化の日**

 2006・4・19日(水)九江学院学生活動室において、日本文化研究会主催の「日の韻桜祭」という行事が行われる。会は外国語科の学部長挨拶に始まり、カラオケ、踊り、はたまた日本人教師まで登壇させられて、挨拶したり、喉を鳴らした。また、コスチュ−ムクラブや漫才、寸劇クラブも競演し会を盛り上げた。

写真左:ゆかた姿で日本の踊りを披露*日本語学科生(

写真右:コスチュームクラブの競演(侍姿
* 学生会活動* ……2006/04/24…
**日本文化の日**

 2006・4・19日(水)九江学院学生活動室において、日本文化研究会主催の「日の韻桜祭」という行事が行われる。会は外国語科の学部長挨拶に始まり、カラオケ、踊り、はたまた日本人教師まで登壇させられて、挨拶したり、喉を鳴らした。また、コスチュ−ムクラブや漫才、寸劇クラブも競演し会を盛り上げた。

写真左:ゆかた姿で日本の踊りを披露*日本語学科生(

写真右:コスチュームクラブの競演(侍姿
* 孫九江へ※出迎え ……2006/05/08…
2006年4月28日(金)晴れ

**上海へ**
孫を迎えるために夜行バスで上海へ。全席、寝台車になっていて、走行時間9時間半、九江20時発、上海5時30分。これだと日本への往来時にも使える。朝の6時代に着けば、以後浦東国際空港発、日本のどの時間にも十分間に合うので、ホテル代が節約できる。乗り心地も快適。バスは予定通り上海駅の近くに着く。鹿児島―上海便まで十分時間があるので、まずは帰りのバス席を注文したが、既に売り切れとの事。現在のところ、往復券を発行してくれない。どうしてそうなのか、いまひとつ理解できない。それだけ、旅行計画には不確実性が伴う。現在の通信技術において往復切符の発券ができないとは一つのミステリーである。そういえば、発券はコンピューターで打ち出すが、計算はそろばんでやっていたので変だと思った。無いものは仕方がないので汽車(中国では火車)の寝台つきを買うため駅に直行した。幸い、3席手に入ったが、席は三者三様、幸い同じ車両であったことに安堵。ただし、17時間の長旅と相成った。

2006年4月29日(土)晴れ
**浦東国際空港へ孫たちを迎える**
午後2時30分、孫2人無事到着。出迎え口で、種子島の寺田氏に会う。彼は石材業を営んでおり、原石や半製品を中国から輸入しているので、よく中国出張がある。保護司でもあり、自分も保護司を拝命していたときの同志。久しぶりの出会いに感謝。
孫2人を連れ、浦東空港より上海中心部へ移動、上海駅(上海火車站)周辺でマクドナルドのセットを注文し夕食とする。18時25分の南昌行寝台車に乗る。南昌到着は翌朝11時前。ちと、時間がかかりすぎ。南昌で昼食を摂り、南昌からはバスで九江へ。宿舎到着は午後2時半。
料金を比較してみる。バスは乗車券が197元。保険料が3元で計200元。列車は同様に乗車券寝台券共に200元。南昌から九江のバスが40元なので、結局寝台バスのほうが安く、乗車時間も短い。これでは、バスに軍配が上がる。中国の列車利用も、やがてかっての日本の国鉄並みになり早晩大改革が必要になるのではと、よそごとながら、余計なな心配かな。

 孫の名前と年齢は次の通り
圖師光基(14歳)ほやほやの高校1年生。圖師俊和・愛の長男(愛は池田公榮の2女)
圖師拓海(12歳)中学2年生


2006年4月30日(日)晴れ
**孫たちを迎える**
午後2時半。九江学院宿舎に落ち着く。4時過ぎには、学生たちがやってきて孫たちの相手。最初は多少戸惑った感じであったが、やがて慣れてくると、日本語がわかる学生だというので、緊張も取れ、会話が弾む。以後はゲームをしたり、学院キャンパスを案内してもらったりですっかり打ち解けた。
今日の聖日礼拝は、以上のわけで欠席した。欠席はしても、キリスト者の祈りと瞑想、賛美は何処ででも、どんな状況の元でもできるのでありがたい。「インマヌエル主われらと共に居ます。」である。



写真左:上海外灘地域を歩く

写真中:上海駅。九江は此処から寝台車で17時間のところ。

写真右:孫の拓海はなぜかアインシュタイン像の前に立った。
 孫:九江の経験 ……2006/05/08…
2006年5月1日(月)晴れ
**孫たちと**

 まず、九江学院のキャンパスを見学する。日本語科の生徒数名が同行してくれてキャンパス内の総ての施設をめぐった。総ての施設を巡るのにほぼ1日を費やした。孫たちが将来中国留学をしたいときの選択肢の一助となることだろう。

**中国のメーデー(労働節)**
中国では3日間のメーデー休暇があり、ゴーデンウィークと呼ばれている。日本のGWはみどりの日、憲法記念日、こどもの日と複合の祝日が重なっての連休であるが、中国は原則1日から3日までの祝日休暇。学院は特に木、金の授業を前週の土、日に振り替えて連続1週間の休みとなる。生徒も教師もこの間を利用し、帰省したり、国内旅行をしたりする機会としている。今年のGWは天候に恵まれ、みなよい1週を過ごしたことであろう。


2006年5月2日(火)晴れ
**孫たちと**
 九江市内見物。タクシーなど使わずに、庶民と同じバスを使う。市内だったら距離に関係なく何処までも1元。煙水亭、甘棠湖、南湖、長江、長江大橋、歩行街、カトリック教会、九江市中心幼児園(妻がボランテアしている幼稚園)、旧師範専門学校あと(1月まで教鞭をとった場所)などを、巡りながら説明を加える。

 昼食は甘棠湖近くのレストランでバイキング食を取る。唐辛子が利いた辛いものが多くて孫たちの口には合わなかったようだ。中国の食文化に触れて、実体験を積んだことに成る。辛いものも慣れてくると、辛さなしでは物足りなくなるものである。

 カトリック教会では役員(デアコノス)の方が対応してくれて、しばらく会堂を見学させてもらい、短い祈りをする。最近、神父が交代されたとか。現在81歳の老神父がミサを執り行っておられるとの事。最近、此の教会へは、家庭教会や地方の小さな教会へ行くようになってからしばらく出席していなかった。かの役員氏、大変喜びの笑みを浮かべ、「あなたたちは、主にあって兄弟です」といって歓待してくださった。


2006年5月3日(水)晴れ
**孫たちと蕨採り**
 中国の山野も歩かせたいと、蕨のある山にピクニック。学生たちも3人同行し、いい汗を流す。汗が出るほど気温が上がり、初夏の様相。途中には黄色い木苺や赤い山苺がある。山野の小鳥や小動物にとっては、これら木の実は格好の常食であろう。小鳥たちには横取りするようで気の毒だが、われわれもついばん食べながら散策する。また、道端には野生のバラがさいていてとても心和ませてくれる。他の植物と共生しながら咲いているバラは、つい、人の足を止めさせる。日本だったら、こんなバラも結構花屋の鉢物や切花になって商品になるはず。
 
 歩きながら自然の恵みを感じることは孫たちにとってもとても大事なことだと思う。自然を愛でる気持ちが醸成されて始めて自然を大切にし、護る意識を高めることになるだろう。いよいよ蕨が生えている場所に着く。日差しがかなり厳しく、暑かったが、みんな楽しみながら蕨を取った。これも自然の恵み。私は蕨の採り方、食べ方を昭和16年代に祖父から学んだ。今、祖父がしたことを孫に伝える喜びを感じる。自然と調和しながら、恵みにも与る。この知恵を子々孫々に伝える必要があると日ごろ感じていたことが今日実現したからだ。
 
 持ち帰った蕨はアク抜きをし、一部は野菜炒めに、一部はモロヘイヤ風スープに、一部は漬物にし、日本の孫の親たちに土産物とした。参加した学生の中には始めて食べる者も居て、新しい発見をしたはずである。

 午後は、学生を交え、トランプゲームを楽しむ。ゲームの効力は心を開かせることにある。互いに忌憚無く物が言える雰囲気が生まれる。


写真左:メインキャンパス事務局の石碑前で「敢為天下先難得大説明(天下の説明し難きことに先ず敢えて為す) 李鉄映」と建学の辞が彫られている。

写真中:孫を連れて蕨摂り。食べることのできる山菜を実体験させたくて。

写真右:図書館前で学生たちと。
* 孫帰途につく(上海見物) ……2006/05/08…
2006年5月4日(木)晴れ
**上海へ帰途の旅**
さきの蕨の漬物を土産に持たせ、午後20時長距離バスにて九江を発つ。学生たちが5名バスセンターまで見送ってくれる。明日は上海。市内見物を計画している。よい天候に恵まれればよいがと思いつつ、いつしか眠りに着く。

2006年5月5日(金)晴れ
**上海市内見物**
目覚めると、はや、上海長距離バスセンター。目覚めて爽快な気分。そして、思う。眠ることは人間にとって、生物にとってとても必要なこと。よく眠れることが健康の証だと。

 駅の手荷物預かり所に荷物を預ける。「1日か?」と聞いたので「対そうだ」というと、1個15元前払いで請求された。駅周辺ではこの種の商売が結構いいだろうなと思う。一日100個づつ預かると1500元、これは1日だけで、中国の平均的月収を上回る等々と、とらぬ狸の皮算用をする。

 その後は、家内手製のサンドイッチと紅茶で公園広場の椅子に座って朝食。孫たちもバス旅行で空腹になっていたと見え、ペロリ。

 さて、朝食後は地下鉄で人民広場へ行く。此処は上海市の中心部であり、市役所、博物館、芸術劇場、緑地公園などが集まるところ。まずは上海展示館を見る。上海の過去、現在の移り変わりや、上海の将来像などが写真、パネル、AV(オーデオーヴィジル)などで説明されていた。2010年の上海博覧会にむけての準備を進める姿があちこちで見られた。
 
 少し距離はあったが徒歩で外灘公園へ。ここも上海の観光スポット。旧上海の町並みを今に残し、どこかヨーロッパ風の建物群が異国風を感じさせる。外灘公園は長江本流につながる黄浦江に面してあり、対岸に高層建物群が乱立している。この黄浦江は上海の良港として昔から栄え、昭和初期には世界の客船が此の港に着岸したものである。地図でみるとどうも入り江であった部分を上手く港湾化した運河ではないかと思量される。

 次は豫園。明・清代の建物群が今に残り、上海でもっとも観光客が集まるところ。ここでレストランに入り食事を摂る。だが、食べ物は最高に不味いところ。上海で何十回も食事をしたことがあるがだだの一回もおいしいと思ったことが無い。淡白で、どうも腑抜けの味。日本人は少しから口なのか、塩で少し加減しないと口に合わない。五星級のホテルにしても同様。金の価値を満たしていないと思う。まず、水が最高に悪い。その悪い水で調理した食がおいしいはずが無い。

 豫園では思いがけず九江学院の英語教師Mrアーサーに出会った。ご兄弟の来中とかで、一緒に休暇旅行との事。さきの浦東空港の寺田氏といい、偶然・ばったりとはあるものだとひとり感心する。
 
 相当歩いて疲れたので早めのチェックイン。午後4時には駅の一時預り所から荷物を受けだし、予約していたホテルに。此処は三星級ぐらいだろうか。でも20階建てのホテルで少し古びた感じはしたが、蘇州川のほとりにあり、上海駅や長距離バスセンターの近くなので、行動に便利である。上海観光がなければホテルなしでもよかったのだが、孫たちにとっては上海は最初の経験。宿泊を含めた観光は必要であった。だが、此のホテル、食事場が改装中で、近くのレストランで摂ってくれとのこと。やれやれということで、洋風レストランに入る。日中晴れていた空が曇り、いつしか小雨がぱらついていた。傘なしで、少し濡れたが、たいしたことではなかった。

 さて、メニューをみて牛のビーフ、鳥の毛羽焼き、チャーハン等注文。一応、スプーンにフォーク、ナフキン付の完全洋風タイプ。孫たちは不味いといいながらもの残さず食べたのでよかった。残すことは自分らの年頃にはもったいなくて気になる。3人で〆て150元(日本円で2200円ぐらい)。此の値段、日本ではそんなものかと思うが、中国人にとっては22000円ぐらいを張り込んだ感覚となる。もちろん、中国13億人のうちの7000万人は日本の富豪より金持ちだそうで、上海は片や高級ブランド品、輸入された高級食材で裕福な生活をしているが、90%以上の人はそんなの高嶺の花で、一食2元3元の世界で過ごしている。

 明日は早いので、午後9時には消灯。眠りに着く。眠りは最高のご馳走。一日の疲れを癒し、時を短縮し、心に残る夢までも提供するのが眠りである。「イエス様も眠いときは寝なさい」といわれた。眠ることは人生で食べることと同じく最高の神の恵みである。

2006年5月6日(土)雨
**孫を見送る**
 朝5時半起床。途中の万が一のことを考え1時間余裕を持って行動する。孫たちにも、計画、行動は常に余裕を持つべき事を身をもって教えたかった。チェックアウトを済まし、タクシーでリムジンバス発着所へ。しばらくして、6時始発のバスが到着。一路浦東国際空港へ。浦東空港は目下第二ターミナルビルの建設中で、アジア第一の輸送処理能力をもつ空港に成長することであろう。
 
 空港レストランで朝食を摂る。サンドイッチとウーロン茶の注文2人分。140元(2100日円)。孫たちはペロリト平らげてくれた。約1時間前に出発ゲートへ。此処をくぐると、引率者はこれ以上入れない。ここで孫たちに各自、パスポート、出国カード、チケットを確認させ、「はい、此処でお別れだよ。さっき、言ったことを守りながら、一人ひとりトリパスポ−トのチェックを受けるんだよ。そのあとは、36番ゲートだよ。タラップでなくて、バスで飛行機まで運ぶんだから、注意してね。」とこまごま教える。孫は緊張したのだろうか。それとも、くどいなと思ったのだろうか。確かめる間もなく、手を振ってゲートのかなたへ消えた。
 
 自分は孫たちと別れ、再びリムジンバスで上海市内へ。今朝チェックアウトしたホテルヘ。疲れを癒すために、長距離で九江へ帰るバスの出発間際まで仮眠することにした。ホテルに着く頃、次女の愛から電話が入り、孫たち無事鹿児島空港へ到着したとの事である。神に感謝!それにしても、空のたびは早いと思う。孫を見送り、バスで空港から市内まで走ってしばらくしてる間に上海から鹿児島に着くのだから。早い分、自然や環境を少しづつ蝕んでいるのかなとこれまた複雑な気持ち。 

 これで、孫を中国へ呼んだ爺さんの役目が全部終わった。あとは、彼らが、中国に抱いた印象、中国の学生たちと交わった経験、中国の教会で出会ったクリスチャンの印象などを整理し、将来に備えてくれることを期待する。願わくは、中国に学び、中国語をマスターして、日中を舞台に、日中共繁の成果を上げてほしい。
 
 午後6時、ホテルをチェックアウトし、軽い食事を摂って午後7時30分、九江行き長距離バスに乗り込む。ここでもまた九江の教会でいつも礼拝を共にしている信徒の親子にぱったり。彼女たちも帰途のためだとか。はからずも隣同士の席であった。バスが動き出すと、程よい揺れに何時しか眠りに着いた。

写真左:出発前に九江学院のつるバラの前で

写真中:預園で  此処では世界中の言葉が飛び交う

写真右:路地で羊肉の串焼きを売っていた。上海で食べたものではこれが一番美味かった。一串2元
* 孫送迎事業終了 ……2006/05/08…
2006年5月7日(日)晴れ
**九江着**
午前6時前バスは長江大橋を渡り、まもなく九江バスセンターに着いた。空はすっかり明けていたが、昼間の九江市とは思えぬほど人がまばらで、こんな静かな早朝の風景は始めてみた。街全体がまだ眠っている感じだ。一番市バスに乗り九江学院キャンパスに着く。7時前の帰宅である。これで、一連の孫送迎事業は終わる。神に感謝!


写真左:孫たちと上海で記念写真

写真中:此の銅像、なぜか大作曲家バッハのもの。バッハと上海はどんなことで結びつくのかな?

写真右:宿泊した宮宵ホテルの周辺景色
* 上海の光と影 ……2006/05/08…
富の追及とバベルの塔
**上海の光と影**
上海は人口においてニューヨークに次ぐ大都市。東京は3番目。大都市には必ずといってよいほど光と影の部分がある。

上海の光の部分は経済的発展であろう。何万年の間に長江下流に形成された広大な洲には、所狭しと高層ビルが建ち、世界の主要国が中国との合弁会社、支社、支店、駐在所を置き、盛んに経済活動を行う中国経済の中心地である。建物、ファッション、住宅など眼を見張るものがある。また、くもの巣のように張りめぐらされた近代道路網は将来の発展性や効率性をアピールし、いやがうえにも世界の目を引くようである。

 影の部分はどうだろう。貧富の差、道徳の退廃、スラム化、犯罪多発などのであろう。だから安心して道も歩けない。貧富の差は特に上海では大きいと聞く。高額所得のものが約8%ぐらいいて、生活も豪華。子弟の教育にも金をかけて外国有名校に留学させる。彼ら持てるものは益々豊かになり、持たざるものはその持てるものまで失う社会である。あとの90%は貧困層である。貧困層の者たちがいつまで格差社会に我慢できるか。我慢の限界を超えるとき、中国には暴動、騒乱が起きるかもしれない。

 道徳の退廃も然り。小さな例だが、上海駅から宮宵ホテルまでタクシーを利用しようと頼むと、40元と言う。いつもタクシーを使い慣れたものにとっては割高感がある。実際は10元なのだが、40元と吹っかけてくる。反射的に「不用ブヨー」我出た。

 また、豫園などの観光地の土産物は値があって無きが如し。2倍吹っかけは当たり前。慣れない人は余計な買い物をさせられることになる。いわゆる1発屋式商法である。

 これでは、上海の魅力は無くなる。上海は一回行けばよいところかもしれない。少なくとも自分にとっては上海に何回も行きたいとは思わない。水は悪いし、食は不味いし、人は信じられない。これだけでも上海の魅力はうせるというものだ。リピート訪問なんて真っ平である。

 上海はバベルの塔さながらの都市だと思う。旧約聖書創世記に人々が協力してバベルの塔を築き、人間の力で神の高さにまで到達できるとして高い塔を築いた。神はその塔をいとも簡単に破壊し、民の言語を乱された。以後、人々は言葉が通じなくなり多くの民族に分かれたと記している。上海は経済発展という一事にのみ眼がくらみ、伸びきってはじけるバブル現象を呈するのもそう遠くはないといわれている。

 専門家の上海評は2010年の上海博を期に経済変動が起きると予測している。
 
 上海の高層建築群もまた脅威である。地震はないとの前提で建てられているようだが、いつか地震は必ずある。地球が動いており、地底が流れているわけだから、造山運動などがあるはず。地震がきたら、関東大震災の比ではなかろう。怖い!怖い!

 以上は上海だけに限られたことではない。ニューヨーク、東京、パリ、ロンドンでも同様な現象が起こるだろう。パリなどつい先日、雇用格差の問題で大きなデモがあったばかりである。

  限度を超えたものには必ず歪が生ずる。総てはバランスを考慮して、「程ほどに」がよいのであろう。  

   池田公榮上海で感じたこと 2006・5・6


写真左:上海駅前広場には野宿するひともかなりいる。

写真中:昼間の駅前広場は多くの人の出入りで賑あう。

写真右:ビルの奥には一見してスラムと解る場所もある。
* 家庭教会(地下教会) ……2006/05/09…
**日曜家庭礼拝**

8時朝食を済ませ、妻と家庭教会へ。此の教会は以前出席したことのある教会。

 まず、「家庭教会とは」についてまとめてみる。日本では地下教会などといわれ、一般の教会と区別している。文化大革命当時は仏教といわず、キリスト教会といわず、宗教そのものを非科学的だということで迫害の対象にしたことは確か。文革後、中国は政府の示す宗教政策にのっとり、政府が認めるものとして二つの組織をつくり統括するように命じた。一つがカトリック教会の「愛国教会」、もう一つがプロテスタント系の「三自愛基督教会」である。ところが、此の二つの組織に入らない教会も実際には存在した。彼らは家庭集会として、非合法を覚悟で細々と礼拝を守ったわけである。

 家庭教会の存続理由に二つがある。一つは地理的理由。政府は一市一教会主義であったため、教会までに距離がある地域に住んでいるキリスト者は教会への足が無かったりで、自然と家庭で礼拝を守った。他の理由は教義的理由。特に聖霊派の教会は政府の通達違反を知りながらあえて独自の礼拝活動を続ける決断をした。幸いなことに、2006年1月より、信教の自由の拡大解釈が政府から示され、家庭教会も認められる方向となった。しかし、東北地方は北朝鮮の脱北者を援助したり匿ったりするケースがあり、中朝間の政治的利害から、時々、脱北者を援助する教会の指導者が拘束されることは今でもあると聞く。中国は、外交儀礼として、時々北朝鮮に対するゼスチャーとして脱北者を匿った教会指導者を拘束するが、拘束してもすぐ開放するようだ。教会は武力革命とか、中国政府の当面の政策を妨害するものではなく、却って、教会を認めることが西側への信教の自由の実践者であることをアッピールすることになる。今、順風が吹き始めたとこころ。

 今日、政府公認の教会信徒数はカトリック800万人、プロテスタント系1200万人としているが、教会独自の統計では愛国教会1200万人、三自愛教会2000万人、家庭集会5000万人以上としている。約1億人いるだろうとも言われている。願わくは神が中国の民を特に省み、信教の完全自由を達成できる道の開かれんことを。
 
 今日の家庭礼拝は出席者約20名。集合住宅地の4階。プラスチック製の簡単なイスと小さな講壇が一つ。賛美を歌い、導かれるままに立ち上がって祈り、召命を感じたものが立ち上がって講壇へ進み、聖書を読んで所見を述べる。

第1人目の兄弟の証
聖書詩篇133:1節、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」兄弟(基督信徒を意味する)がともに礼拝で神を賛美している姿はなんと大きな恵みであり喜びであろうかの意。
122編3節「エルサレム、都として建てられた町。・・・」エルサレムは神の国完成の雛形の意。

第2人目の兄弟の証
ヘブライ書11章8−13「信仰によって、・・死んだも同様の一人の人から、空の星のように・・・多くの子孫が生まれたのです」参照創世記22章死んだも同全のおいたる100歳のアブラハムにイサクという世継ぎが生まれる。常識を破ってでも、神は約束されたことは必ず実現されるの意。

 第1の証人は神の国の完成を望む信仰を表明し、第2の証人は信仰による実現は確かなものということで、アブラハムの信仰例を証言する。

* 母の日に寄せて ……2006/05/15…
2006年母の日に寄せて

私の母たち

私には四人の母がいる。いや、六人である。私はなんと果報者だろう。世には一人の母しか持たないものが多いのに、6人もの母に恵まれるとは。以下、各々の母について記録する。

最初の母、芳江(よしえ)
 
 熊本県川尻、河北家のひと。父と結婚し朝鮮元山に赴く。公榮を出産し、公榮の生後100日を祝う写真を撮影に写真館に行ったとき、風邪に罹り、それが原因で死亡。生母の面影や記憶は全然ない。母の婚前の写真が手元にあるだけである。だが、公榮に命を与えてくれたのは此の母である。感謝しなければならない。

2番目の母 くに子。
 昭和9年武明と結婚。たしか従妹同士の結婚と聞く。弟清久誕生。脊髄カリエスを患い死亡。メガネの似合う美女で、優しい母だった。悲しいかな、親子ともども昭和16年前後して他界した。清久は九江で。母は天草河浦で。
 
3番目の母ハルエ 
 熊本県砥用の出身。昭和14年父武明と結婚。一男一女をもうける。ハルエ母、父武明、弟清久、公榮の四名は昭和14年10月から昭和16年12月まで九江同仁会病院の宿舎で暮らす。公榮は九江で小学1年生と2年生の半ばまで過ごす。だが腸パラチフスという疫病に罹り、昭和16年12月長崎県小浜町諏訪の池の祖父のもとへ引き揚げた。弟o平も同時に引き揚げ、弟は熊本県砥用の上田永松(ハルエの父)祖父に引き取られた。不幸なことに、父武明は肺結核を患い、再起不能の死地をさまようとき、親戚の反対に会い、離婚となった。その後ハルエ母はかって身に付けた養蚕産業の専門性を活かし、県の指導員となり、定年まで勤務して、o平、カジ子の養育に当たる。2006年3月2日午後4時過ぎ逝去。行年88歳。3月9日で89歳となるところだった。2006年1月病院に見舞ったのが最後となった。葬儀にも九江からは間に合わず、親不孝をした。
ハルエ母の思い出
九江の2年間の生活でいまなお忘れられない思い出がある。母は勝気な気質だった。今にして思えば23歳で武明の妻となり、公榮、清久という先妻の子どもを養育しながら、家事万端をこなした。着物類は一切手造りであつらえてくれた。和裁もよくこなし、自分の着物も自分で気に入ったように仕立てた。味噌も自分で作った。公榮には音楽の指導をよくしてくれて、階名唱なども習った。おかげで、楽譜をみて新曲でも歌えるようになった。宿題のチェックもよくしてくれた。遠足の時には特別ご馳走をこしらえ持たせてくれて、学級の仲間がうらやむほどであった。秋には草原でバッタを捕まえて遊んだりもした。そんなときの母はまるで少女のようであった。

最後の母澄江のこと
 四番目の母となった人は澄江である。澄江は鹿児島県川内の人。昭和20年前後熊本市で病院看護をしていた。今日で言うなら、訪問介護士のような仕事。そのとき、父は澄江の看護を受けながら、死地をさまよい、闘病に明け暮れていた。親戚一同も、上田家の皆さんも、武明はとっくに死亡したものと了解していたはずである。ところが、澄江の献身的看護のお陰で九死に一生を得た。当時、父のことを「いり豆に花」と表現されたものである。いり豆とは煎った豆、即ち絶対発芽しない豆のこと。それが生命を吹き返して花が咲いた、というわけである。

 戦後は澄江、武明、公榮の3名が一家をなし、一時熊本県上益城郡小峰(現在の蘇陽町)に薪炭を焼く会社の社員として勤務したが、病気上がりの父がそんな肉体労働に向くはずがない。結局昭和24年には澄江の故郷鹿児島県川内に厄介になることになった。以後24年間、家計の切り盛りをしたのがこの母であった。澄江は男に負けない気性で、どんな困難にも立ち向かい、粘りで困難を解決した。また、学歴はなかったが、智慧と積極性があった。生きる力を備えていて、食糧難、金銭難すべてを解決した。自身よく働き、家の修繕ぐらいは朝飯前であった。かくて、澄江は昭和46年肺がんに犯され、川内の病院で他界した。そのとき、看病に行ったのは妻久子であった。一番世話になった公榮は種子島で仕事の都合とはいえ、看病もしてやれない親不者であった。このことは天国で再会したとき、重々お詫びしたいと思っている。

5番目の母デットモア女史 
 霊的母親。公榮をキリスト信仰に導き、大阪の神学校へ送ってくれた人。彼女は1945年代、中国は雲南省リース族の間で夫とともに宣教活動をなし、成功するも、夫は現地でチフスに罹り死亡、D女史は共産政権に追われ、一人娘ジャネットとともにチベット越えで中国を脱出し、以後鹿児島で昭和28年から33年まで伝道した人。6年前にすでに他界されたが、その働きは一人娘のジャネット夫妻がタイを基点に今なお宣教を引き継いでいる。

 D師との出会いなかりせば、公榮の人生はもっとかわったものになっていたであろう。現在よりはるかな無味乾燥な人生にだ。そんなわけで、D師は公榮の霊的な母。

最後のそして永遠の母
イエス・キリスト様
 第六番目の母はイエス・キリストさまである。キリスト様は男性として地上に来られた。その生き方は子を守る献身的母親のそれに似ており、そんなわけで母性的イエスさまといいたい。この方は、私が生まれる前から私を導き、私の罪のために十字架に架ってくださった。おかげで、天地創造の神の前に罪なき者として受け入れてくださる約束を得た。今はこの約束をひたすら信じ、地上の旅を全うしたいと思っている。この方は、どの母にも勝って公榮を大切にし、ずっと共に歩いてくださる永遠の母である。

 「母君に勝る愛や世にある」賛美歌の一節である。
終わりに、私の母だけでなく、世のお母さんたち。ありがとう。子供をもうけ、イエス様にならって子育てしてね。



写真左:今年1月帰省のとき母ハルエを見舞ったとき(前列左)。はからずも、此のときが今生の別れとなった。

写真中:九江でよき協力者の妻久子と学生。久子は5人の子を育てそれぞれに独立させた。彼女も世に誇れる立派な母親となった。

写真右:天地万物を創造された神は人となってこの世に来てくださった。それがキリスト様。そして永遠のわが母。
* 九江の花だより:五月の花 ……2006/05/15…
五月の花

 九江の五月は1年中で最高に楽しめる季節と思う。若葉が萌え出で、道をある歩くとほんのりと花の香りが風に乗って心地よい。
 
 日本も5月の花は九江にもまして咲き誇っていることだろう。バラ・しょうぶ・ダリアなどだろうか。


写真左:シャクヤク。中国では書画のなかの題材によく使われる。花は短命で1週間ぐらい。

写真中:バラはもっとも色が鮮やか。濃い赤、ピンク
 など色も多様。

写真右:石楠花(シャクナゲ)の一種で、木は3メートルぐらいになり、芳香性の白い花が見事。
学名:Magnolia graudiflora 中国名:荷花玉欄 欄科Magnolia 鑑賞用木

* 九江五月の野生の花 ……2006/05/16…
郊外にでて野山を歩けば珍しい草木と花に出会う。野ばらは小柄の白い花を咲かせ、蜂がその蜜をあさっているのが心和む。

写真左:ガクアジサイに似た花。日本のアジサイのように蕚が寄せ合って大きな花に見せている。香りはしない。

写真中:田舎の街路で見る樹花。日本の栴檀の花に似ている。遠保から見ると雪を被ったように見える。

写真右:柑橘類の一種だろうか。色は白。ほのかな香りをはなつ。
* 田舎の風景 ……2006/05/18…
九江田舎の風景

川は洗濯場。
九江市から約30分も郊外へ出るとそこには一昔まえ(1950年代)の中国風景を残している。女性たちは川に集まり、洗濯をしている姿なぞその好例。彼女たちは井戸端会議ならぬ川端会議も兼ねているのだろう。様子をみていると十分その雰囲気が伝わる。
 
田植えの時期 
田んぼには水が張られ、水牛で田をすき興し、田植えの準備をしている光景があちこちに。中国江南地方(江西省、湖南省、広東省、福建省、浙江省)は平地と水が豊富で米産に適し、耕地も広い。中国13億人の胃袋をまかなう台所でもある。食料自給問題は中国の大きな国家的課題でもある。
 日本も例外ではないのだが。

肥溜め
 畑道を歩くと、あちこちに肥溜めがある。1960年代までは日本の田舎でも見られた光景。あの肥溜め。人糞、家畜の糞、残飯を腐敗させたものなどが溜めに放り込まれており、天然の肥料工場である。一種独特な臭いがするにはするが、なんとなく田舎にきたなと懐かしい。
 
 日本でも屎尿処理にはお金をかけているのだが再利用されているのだろうか?いないとすればもったいない話しだ。

写真左:廬山麓の田舎で洗濯をしている婦人たち

写真中:五月も末になると、あちこちで田植えが始まる。水を張り、水牛の力を借りて田植えの準備が始まる。

写真右:畑の一角に肥溜めがある。日本でも昔は見られた光景。
* 玉蘭について ……2006/05/19…
荷花玉蘭(ギョクラン)
学名:Magnolia graudiflora Magnolia科 観賞用木

 玉蘭は九江学院キャンパス内に多く植されており、今が開花の最盛期。キャンパス内にはこの花が放つ甘酸っぱいほのかな香りがとても心地よい。樹木は3,4mぐらいで、木と葉は枇杷に似ている。花は一本の木にせいぜい5,6個。つぼみは固く、筍型でつぼみになると丸みを帯びた白色。開花すると、直径10センチ大となり、10程度の花弁を中心に円錐型の花粉をもった雄しべが雌しべを取り巻くように並ぶ。期が熟すと、雄しべは落ち雌しべだけが残る。同時に純白の花弁は徐々に土色となり落下する。

写真左:開花前のつぼみ

写真中:3分先の玉蘭花

写真右:満開の玉蘭花 純白の花弁、薄黄色の雄しべは雌しべを包むように取り巻いている。
* ゆかたブーム ……2006/05/22…
九江学院にゆかたブーム

「日の韻さくら祭り」をきっかけに、九江学院日本語学科では「ゆかたブーム」に沸いている。学生たちが、ゆかたを縫ってくれるように家内に懇望し、おかげで家内は大忙し。感心なことに、家内は頼まれれば断らないで対応している。これもまたささやかな日中友好事業であろう。家内に感謝!

写真左;英語学科の浴衣姿

写真中;ウコウ(写真右、日本に日中交流員として滞在経験がある人)さんと日本語学科生徒の浴衣姿。

写真右;日本語科生の浴衣姿
* 九江田舎の教会で説教 ……2006/05/22…
2006年5月21日(日)礼拝説教

九江市九江県沙河という街で礼拝の講壇を引き受け、聖書の解き明かしをする。

概要以下の通り
九江県三自愛教会で説教
コリント第2書1章より 「万事益となるの人生」について説教。通訳:日本語学科の紀珂姉

 一、慰めに満ちたる神 コリント後書1;5
慰めと翻訳している原語はコイネーギリシャ語のパラカレオー(Παρα καλεω)がキーワード
基本の意;Παραは「傍」。καλεω「呼んでいる」の意。神がいつも人間と共にいてくださるという意。ゆえに「助けられることを信じるものにとってはおおきな慰めとなる」ことから転じた訳。

 二、助け主なる神 ヨハネ福音書14;16,17
「助け主」と翻訳された言語もやはりコイネーギリシャ語のパラカレオー(Παrα καλεω)がキーワード。前項のキーワードから「共にいて助ける」という意味となる。

 三、凡てのこと相働きて ロマ書8;28 
Πανταがキーワード。パンタと読み意味は「凡て」凡てとは「一つの例外も無くの意」。人が判断する好いと思うもの、悪いと思うものすべて例外なくという意味。
   
 好いと思うものの例;無病息災、高学歴、高地位、家庭円満、高権力、高収入、順風満帆、万事意如など。
 
 好ましくないと思うもの例;病弱、落ち毀れ、下積み、できない、切れない、病弱、臆病、事業失敗、倒産、理不尽と思える人間関係、不治の病そして最後は死。

 神は人が求める好ましい事も、好ましくない事もすべてひっくるめて受け止め、これを最終的に人類の益へと変えてくださる方である。だから、平安であり心強い。


賛美歌 

十字架に架かりたる 救い主イエスを見よや こは汝が犯したる 罪のため
 
ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずるものは誰も 皆救われん


 聖書の箇所は本文は割愛しているが、興味のある方は聖書を開いてください。



写真左;講壇で説教を担当する筆者。隣は通訳をしてくれた紀珂嬢(日本語科学生)

写真中;九江市九江県沙河の通り。九江市から訳20キロ南西。この辺は60年前の九江の雰囲気をそのまま残している。

写真右;教会の近くの民家の庭に咲いていたつるバラ
* 花壇つくりで汗流す ……2006/05/27…
2006年5月27日(土)晴れ
花壇整備

 いい汗流す。外教(外国人教師)住宅の入り口にスペースがあるのだが花木類がまったく無いので淋しかった。このスペースを利用して花など植えれば、入り口も気分よくなるのではと思い、事務局の許可を受けてまず耕すことにした。自分にとっても朝晩の適当な運動にもなるので格好の汗を流す手段にもなる。

 というわけで、学園内の樹木の落ち葉を集め下部に敷きこむ。落ち葉を堆肥とすることで粘土質の中国の赤土が植物の生育に適した土壌になる。米袋20袋ぐらいを敷きこんだあとは、上部に土を入れる。土入れの作業には事務局から応援の生徒を派遣してくれた。また、いつの間にか家内や上階の外教の家族も親子連れで土運びに参加してくれた。このようなわけで、近くの土取場から米袋につめて50袋ほど運び込み何とか畑の体を為してきた。

 夕方、生徒から花屋が来ているとい電話を受け、早速植え込みの花を買いに言った。花は百合の鉢物だった。既に開花しているので、こんなものを植えても1日か2日で花はしおれる。今日のところは常緑を保つ観葉植物を買って、まず花壇の雰囲気を創ってみようと思った。あとはマリーゴ−ルドやペチュニアなどで色付けをすればよい。
 楽しい、土曜の午後であった。

写真左;土に敷き込むために生徒たちは落ち葉を集める
写真中;荒地が花園に変わった。

写真右;土運びで汗を流す
* 家庭教育のこと ……2006/05/28…
2006年5月28日(日)曇り

意見「教育の根本は家庭教育」
 
 いま日本の教育が危ない。戦後60年を経て、教育力は地に落ちた。特に家庭の教育力が無くなった。箴言に曰く。「父を呪い、母を祝福しない世代。自分を清いものとみなし 自分の汚物を洗い落とさぬ世代。目つきは高慢で、眼差しの驕った世代。箴言30;11−13」。またロマ書にいわく、「みな迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行うものはいない。一人もいない。彼らののどは開いた墓のようである、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は呪いと苦味で満ち、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの眼には神への恐れが無い。(ロマ書3;12−18)」の言葉はあたかも今日の日本の社会状況ではあるまいか。

 いま国会では戦後初めてといわれる教育基本法改訂が議題に上がり、愛国心が盛り込まれようとしている。だが、家庭に教育力が復帰しない限り、法の力だけでは実はあがらないだろう。

 また食育という言葉が教育現場では叫ばれるようになった。食育とは栄養のバランスもさることながら、食事をとおして心を養うことに重点が置かれた言葉。ならば、一家団欒で食事をとることのいかに心の栄養になることか。特に、朝食を一緒に摂る時間を確保したい。複雑な勤労社会の今日、家族が朝食を共にするということは、努力と意識なしでは確保できまい。家族が食を共にするとき、互いの心は開き、耳も開くというものだ。そのとき、父は人の道の良し悪しをきちんと教え諭す。母は手作りの料理でもてなし、互いがかけがえの無い存在であることを共感しあう。こんなわけで朝食をともに摂ることのできる家庭設計を多少の犠牲を払ってでも確保するのが家長の責任。

 いじめ、虐待、不登校、ニート、反社会的犯罪など、枚挙にいとまない時代はこれ以上増進させてはならない。これより、今後60年100年をかけても、家庭の教育力を回復することが肝要である。家庭教育の場は一家が共に食事を摂ることから始まる。

「有能な妻は夫の冠」箴言12章4節
「知恵ある女は家庭を築く」箴言14章1節
「孫は老人の冠、子らは父の輝き。」箴言17章6節
「乾いたパンの一片しかなくとも、平安があれば 生贄の 肉で家を満たして争うよりもよい。」箴言17章1節
「若者を諭すのを控えてはならない。」箴言23章13節
参考;サンケイ主張28日も一部参考にした。

写真左;礼拝後の食事「見よ、わたしは戸の外に立って叩く。もし、戸を開けるなら、私も中に入って食事を共にしよう。」ヨハネ黙示録3;20

写真中;孫と朝食を共にする。幼い頃、筆者も祖父の下で育ち、食事をしながら、時勢の話、歴史的人物の話、勤労の尊さなどを聞いたことを思い出す。

写真左;筆者の宿舎にはよく学生が訪れ、食事を共にする機会が多い。食事をしているうちに、孫みたいに思えてくる。心を割って話し合えるときでもある。
* アヒルと遊ぶ ……2006/05/29…
学院池のアヒルに餌をやる日課

一月ぐらい前からキャンパス内の池にアヒルが12羽放たれている。このアヒルに餌をやることにした。アヒルは雑食なので、炊事場の残飯や果物の皮など何でも食べる。食べやすいように小さく切って与えている。かくてアヒルたちとすっかり仲良くなり、餌やリが日課になってしまった。

写真左と右;餌を求めて集まるアヒル

写真中;筆者とアヒルの交流
* 九江の工人たち ……2006/05/29…
2006年5月29日(月)晴れ

底抜けに明るい工人たち
街角には必ずといってよいほど工人たちがたむろしている。彼らは土工(レンガ積み技術者)、水工(上下水道設置、修理工)、電工(電気工事)などで、専門技術の看板を立てて招聘待ちなのである。 
 
 看板といっても写真でみるように手書きの50センチ角程度の厚紙を道路の段差のところに立て、往来の人が目に付くようにしている。日本なら電話帳で専門職を探して仕事を依頼するところだが、九江は路上で直接頼むことができる。「ちょっと、何何通りの何号住宅、5階の16号の水道を直してくれ。水銓がゆるくなったから」などと立ち話で交渉成立。

 彼らは何処かの企業の職員では無く、独立職として仕事を待っている。一日にどれほどの仕事が得られるのか不明であるが、彼らの表情は実に明るく何の憂いも無いような顔つきをしている。時には、気のあった者同士で賭けトランプをしている。こんな風景、昔と変わっていない。マンマンデの世界である。


写真左;明るく屈託の無い工人たち

写真中;「仕事承り」表示は自作の小さな看板

写真右;トランプ遊びをしながら仕事のお呼びを待つ工人たち
* 端午節 ……2006/05/30…
5月31日(陰暦5月5日)は中国では端午節といわれ、学園の生徒たちも、ちまきを食べて楽しんでいる。事務局の呉さんも「どうぞ」といって、ちまきを差し入れしてくれた。端午節句は日本でも守られている季節の伝統行事となっている。
そこで、端午節についてhttp://www.kougetsu.co.jp/index.htmlから引用させていただく。以下引用文
・楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃〜前278頃)という政治家がいました。詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。

・楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。

・これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。
・これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
・そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。
◆ところで、歴史の上ではどちらかと言えば些細なこの事件が、このように盛大な祭に発展していったのでしょうか?それは、次のような理由だと言われています。
・急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったそうです。
その為、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して健康増進を祈願します。

・人々の生きるための切実な思いによるものが、端午の節句が生まれた理由なのでしょう。
◆端午の節句とは?

・日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。

・当時の日本では季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようです。
・五月五日の端午の節句に「鯉の吹流し」を立て、「武者人形(五月人形)」を 飾って男の子の前途を祝うようになったのは、徳川時代からです。
五月五日の節句は、五と五を重ねる事から「重五」、菖蒲を用いる事から 「菖蒲の節句」などと呼ばれています。「五」と「午」が相通ずることか ら、初節句を「端午」「端五」(端ははじめの意)と書きました。

・ 菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句 にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。

・武家時代となると「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」と音 が通ずるために、さかんとなりました。

・平安朝のころから、子供らはショウブで飾った紙のかぶとをつけ、石合戦な どの遊びをしていたそうです。元禄時代(一六八八〜一七○四)になって紙や木でつくった 菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えた。

・室町時代から武家では五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立ててましたが、
江戸時代になって町人階級も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて対抗して楽しんでいました。

コイはもともと威勢のいい魚で、昔から「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元 気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられている。

◆端午が男の子の節句になった訳は?

古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。

やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。

このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。


写真左;学生たちが兜をかぶり端午節を祝う

写真中;幼稚園でも兜をかぶり端午節を祝う

写真右:学生から差し入れをうけたちまき。種子島にも郷土の食べ物としてそっくりのものがある。種子島では角巻という。