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平成18年8月25日〜10月29日
虹の架け橋
池田公栄・九江学院日本語教師日記
* 夏休み帰省中のこと ……2006/08/25…
帰省中のこと
夏休み帰省中、以前関係した幼稚園や保育園の園児たちといろいろな活動をした。芋の草取り、夏祭り、お泊り保育などに参加する。とくにお泊り保育ではアウトドアー活動で野菜や肉を焼いて食べるバーベキューなどが楽しかった。次代を担う子どもたちが、たくましく育ってほしい。

* 日本語教師の交流会 ……2006/08/25…
中国で教えている教師の懇親会
現在中国で教鞭をとっている日本人教師で、夏休みに帰省している者が集まり、食事をとりながら、情報交換をした。この会にはもと、中国で教えたことのある教師も参加し、情報の交換をなし、有意義であった。

写真説明右から
 胡楠楠(コ ナンナン)鹿児島大学教育学部。上海出身。この4月、鹿児島大学と九江大学が交流したとき、通訳の奉仕をした

 加治佐ナ 老師  安徽省安徽農業大学日本語教師
 
 松木順治氏 県庁職員 オブザーバーとして参加(加治佐老師と大石老師の後部)

 大石ケイジ老師  現鹿児島市日中友好協会企画部長  元 湖南省長沙市日本語教師
 
 池田公栄 現江西省九江市日本語教師

  
 竹下嘉郎老師 現鹿児島公務員専修学校教師・前湖南省長沙市日本語学校教師

 藤崎たけし氏 現鹿児島県議 氏の曽祖父が九江市で戦死しておられることから、九江市に関心深く、情報収取と交流のため出席
* 吉原さんと ……2006/08/25…
吉原さん一家を種子島に招く

1、吉原定一さんのこと
吉原定一さんは中国残留孤児として大陸で成長され、以後中国海軍に入り、気象観測を専門とし、定年を迎えられた。この方は家族を連れて日本に帰国され名前も金から吉原に変わる。現在鹿児島市に奥さん、娘さん、孫さんと生活。

2、吉原家は大恩人
吉原さんは私の恩人である。彼とのめぐり合いがなかったら私の九江行きもなかったと思う。あっても、中国の他のどこかであったろう。吉原さんは軍退官後、九江市教育関係の仕事を拝命され、多くの教育関係者と繋がりがあったため、私を九江学院に推挙してくださり、日本語教師の道がひらいた。こういう訳で、私の大恩人である。

3、8月20日から22日まで池田家の客として一家を迎えた。ただ娘さんは仕事の関係で今回はだめ。種子島を南から北まで次女娘の運転で案内した。ささやかな恩返しのつもりであった。

写真説明

 右 種子島には実用衛星打ち上げの宇宙センターがある。写真は基地内の展示館横にあるH2の実物大模型である。また、打ち上げ中止となった7号機の実物と司令塔を見学した。また、展示館で学習もできた。

 中:若狭公園内の鉄砲伝来記念碑。日葡(ポルトガル)友好親善記念碑の前で。これは1929年にポルトガルから日本に贈られ、この場所に建立されたもの。ちなみに最初に日本に鉄砲が伝わった場所が1543年、この種子島の地であった。

右:種子島最南端の門倉岬。ここに1543年8月台風で難破した中国のジャンク船が漂着した。この船には、ポルトガルの商人が乗船しており、この商人から時の城主、種子島時尭(たねがしまときたか)は2丁2000両で鉄砲を買い受け、国産銃の製作を刀鍛冶八板金兵衛に命じた。金兵衛は苦心の末、製作に成功する。以後、堺商人により戦国武将の手に売られ、戦国覇権に終止符をうつ強力な武器となった。

 門倉岬ポルトガル人漂着の地記念碑の前の吉原さん一家。
* 日本では ……2006/08/25…
夏の休暇中のこと

 帰省中、親戚の初盆参りや、高齢の兄弟家族との交流をする。約2ヶ月の滞在がアッという間に過ぎた。その中で、いくつかの出来事、関わりを報告する。

1、納骨式の実施
 昨年7月25日急逝された八板より子姉の納骨を依頼され、引き受けた。姉は代々キリスト者の家族に育ち、同じキリスト者の八板康成氏と結ばれ2人の男子を養育しながら小・中・高校の教諭を務めあげ、退職後は花つくりや、地域の人との交流を続けていたが、80歳の天寿を全うされた。彼女は先祖たちと共に、西之表の納曽墓地に埋葬された。2006年7月24日施行。夫康成氏(83才)の平安と主のご加護を祈る。
 
写真左:埋葬式をつかさどる筆者。


2、伊集院教会で講壇担当
 帰省中の日曜日の過ごし方は当然のように教会出席。神への賛美と御言葉の養いを受け、主の食卓に与ることである。かくて、7月2日は宮崎教会、9日玉里教会、16日西之表教会、23日玉里教会、30日伊集院教会、8月6日串木野教会、13日鹿児島教会、20日西之表教会。うち、伊集院と串木野、鹿児島、西之表教会では講壇に立った。
 
写真中:伊集院教会での講壇風景。


3、孫たちと
 帰省中の楽しみの一つは孫たちと過ごすこと。9人の孫のうち6名とは寝食を共にした。
 
写真右:種子島北端の浦田海岸で海水浴に興ずる孫たち。この場所は、日本名海水浴場88のうちのひとつ。
* 三度九江へ ……2006/09/19…
2006年8月27日日(晴れ)在九江

まずは礼拝へ

 「まず神の国と神の義を求めなさい。」マタイ6:33とある。三度目の九江着を感謝するため、これから始める教師活動のため、まずは教会へいった。今回は学生たちもまだ帰住していなかったので、妻と二人で出席。真新しい会堂ではじめての礼拝。7月2日の第1日曜日からこの会堂で礼拝がもたれているが、会堂は約1000人出席していた。懐かしい顔と出会い、「よく帰ってきた」と握手攻め。キリスト者は国境を越えて兄弟姉妹であり、心を開くことのできる。

 午後は、学園の花畑の草むしりをして、見栄えよくした。ときどき、外事部のスタッフが冠水してくれたのだろう。思ったより疲労していなかった。過酷な暑さの中でも「いのちの水」のおかげで植物も生きながらえたことに感謝。


写真左:新築された九江教会(プロテスタント)

中:礼拝堂内部と礼拝情景

右:夏を惜しんで咲き誇る鶏頭花
* 土つくり ……2006/09/19…
2006年8月29日火(晴れ)在九江

土つくり

 5月、6月に花壇を耕し、木の葉を鋤きこんでいたら、よい腐葉土ができていた。自然の循環というか生命力というか、驚異にあたいする。

 先祖たちは土に親しみ、土に植え、土から収穫して生きた。いわゆる農業の発達である。農業に欠かせないのが水と土。従って古来より、都市が形成されのは河川の流域とその下流域である。黄河、長江、ガンジス、チグリス・ユーフラチス、ナイル、アマゾン等の流域とその下流にできた三角州である。川は時々氾濫し人類を苦しめるが、大きな恵みももたらす。水害による損失よりも、恵みの方が大きいから耐えながら「やり直し」をしてきた。そして、少しずつ水をコントロールし、有効に利用した。

 河川の氾濫は疲弊した土をよみがえらせる効果もある。古い疲弊した土も、有機質を存分に含んだ新しい土が山麓より平地へ、平地より下流へと流れ込む。この流水とともに流れ下った土は作物のために最適なものとなある。

 これからの農業は、この自然のサイクルによって造成される土をいかに人工的に生産するかにかかっている。無害で、豊かな土地を作ることが爆弾や高層ビルを作るより大事。

 というわけで、小生は農業の専門家ではないが、ごくオーソドクスに、落ち葉を拾い、土に敷きこんで健康な土をつくり、花や野菜を植えながら、土に学ぶことにする。願わくは水は天からもらい水で、できるだけ、空気中のチッソ分をたっぷり含んだ水が定期的(週1回50ミリ程度)に振ってくれることを願う。

写真:農家の畑に咲くヘチマの花。ヘチマは乾燥に強く、地下茎から水分を吸い上げる力を持っている。実は野菜として、成長したものは「たわし」として、茎からとった水は「ヘチマコロン」として美顔に使われる。日本でもおなじみの弦性植物。
* 水は大丈夫か ……2006/09/19…
2006年9月1日金(晴れ)在九江

水は大丈夫か

 1、天水 水は大海より蒸発し、山地に雨や雪となって振り、岩清水あるいは雪溶け水となって、河川に流れ田畑を潤し、かつ人畜の飲料水や生活用水となる。役目を終えた水は再び大海へ帰り、蒸気となって陸に降る。昔はこの循環で十分安全な水が得られていたが、今は環境破壊物質の放流や排気中の有毒物質が酸性雨となって水資源を汚染し、有害なものとなった。これ以上の、大気汚染、河川汚染は許されない。政府は管理者としての自覚と、的確な指導を最優先的にすべきである。国民は安全な水を得ることのために、経済優先主義を捨て、自然を大切にする意識の高揚と実践をすべきである。有毒物質の放棄や家庭排油の垂れ流しは各人の意識で防止しなければならない。

 安全な水確保のためには多少の経済負担にも応じ、たとえ日常生活が不便、非効率になったとしても我慢しなければならない。また、きれいな水の確保は日本だけでできる問題ではない。大海は世界中つながっている。ゆえに、一国の問題ではなく、世界がこぞってこの問題に関心をよせ、条約を結び、率先して環境破壊防止や有毒物質の垂れ流しを阻止すべきである。実は、夏休暇中に種子島の海岸を歩き、外国のプラスチック容器などがあちこち砂浜に流れ着いていたのをみて心が痛んだ。

 2、地下水 地下水も元をただせば雪や雨が地下に浸み込んで生成したものである。雪や雨が汚染されない条件の中でのみ安心の水は得られるのだから、やはりここでも官民上げて前項の心がけが必要である。

 3、深海水 最近、深海水が注目を浴びている。海底の深水は真水で、しかもきれいな水だといわれている。簡単には信じがたいことではあるが、ある企業はこれの商品化をしている。安全、無害で、地球的バランスの破壊につながらないならこんないい話はない。

 4、人工水 最後は人工水。水素と酸素が化合して水となる。これは、無色・無臭・透明で・無味乾燥で味のない化学的水であるが、安全なら、これは水利用において最後に人類が行き着くところになるかもしれない。問題は水素をいかに効率よく取り出すかである。この問題が解決すれば環境は累乗的に改善されるだろう。水素を燃やすことによるエネルギー問題ひとつをとっても、どれだけ地球は清くなるか。神の助けにより、人類が水素を大量に利用できる英知を準備できるときが待ち遠しい。
* 九江の光と影 ……2006/09/19…
2006年9月11日月(曇り時々雨)在九江

九江の光と影

 九江は江南地方の流通の拠点。昔から長江を挟んで東西およびその沿岸の交通の要であり、商取引の盛んな都市であった。日中戦争時にも、この町ではさして激しい攻防も無く、日本軍も軍規をまもり、中国民が安心して商売ができたといわれる。

光の部分

 このような九江市は、山峡ダム建設に伴う立ち退き人口の受け入れ計画を導入する等、土地開発、住宅建設、道路整備及び関連インフラの整備において目を見張るものがある。いたるところで大型トラックが走り、土煙をあげつつ建設ラッシュである。従って、市民の経済も連動して潤う。これらは、光の部分であろう。
資料:工場進出率、同固定資産総額は江西省第1位。 ちなみに、GDPは8620元。(江西省統計局編)

 影の部分
 
 死亡率は100人中6,27で、江西省で一番高い。これは、環境汚染等による死亡率の高さと解釈ができる。案の定、社会消費財に投入される予算は江西省でも中位以下となっている。
光に隠れた部分をいかに改善するかが問われるところだ。かって、日本の高度成長期に歩んだ道を九江は、いや中国は確かに歩んでいる。

写真左:2005年に出来た高級分譲マンション。

写真中:色鮮やかなカンナの花。廬山への途中で撮影

写真右:宿舎の窓から撮った九江の落日。太陽をさえぎっているのは雲ではなく煤煙である。
* 九江9月の花 ……2006/09/19…
2006年9月12日火(雨)在九江

九江9月の花

 この次期、九江は1年で一番花が少ない季節と。8月と9月中旬までは秋とはいえ、まだ暑いし、雨も少ないので、植物が生育するには最も過酷な条件となる。

 そんな中で、朝顔だけは例外である。中国の朝顔は野生が多く、弦生で、根を地中深くに張り、多少雨が降らなくても、地下より水分を補給し、葉花ともに勢がよい。日本のヒルガオ、ハマガオ、オーシャンブルーに性質も花も似ている。花はオーシャンブルーを少し小さくしたような花形。色もブルー系だがオーシャンブルーほど濃くない。

 そのほかに、もう一種類野生のミニアサガオがある。土手や畦に小さい花を咲かせる。葉と茎は弦というより、這草のようで、アサガオのように巻きつく性質は無い。葉の形も日本のアサガオとは違う。花がただアサガオに似た他品種かも知れない。ちなみに、中国ではアサガオのことを喇叭花という。

 日本では、アサガオ、ヒルガオ、夕顔、オーシャンブルー、ハマガオ(海岸の砂地に生育するアサガオ系)などがあるが、ヒルガオ、ハマガオ、オーシャンブルーが威勢がよい。中国と日本で咲き誇ってほしい。

 日中友好も、経済も。共存共栄。相互扶助とまで行きたいなー。
【 アサガオの 東と西で 咲き誇り 】


写真説明左:日本の昼アサガオと同じ。花は少し小ぶりで色はオーシャンブルー系。生命力旺盛で他の成木に巻きついて勢いよく咲き誇る。

中:見た目にはアサガオであるが、つるが無い。葉はアサガオに似ている。花は小さく、親指の爪ほど。

右:花はアサガオだが、実はアサガオではない。木はアジサイに似ている。
* はずかしながら・小自伝 ……2006/09/19…
2006年9月17日日(晴れ)在九江
九江県沙河教会の講壇担当。午前7時30分タクシーで沙河へ。ヨハネ福音3:16.この言葉に導かれた池田公榮の人生を証の形で話す。通訳は紀珂さん。

これは自慢話にあらず、私を通して働いてくださる主の証である。(因此不自誇、因此大耶蘇基督)

 1、聖書との出会い(ヨハネ3:16、マタイ16:16) 川内高等学校1年生の時、米国宣教師から聖書をもらい受け、初めて読んだのがヨハネ福音書。最初、英語を学びたい動機で教会に通ったが、D宣教師の熱心な訓育と、祈りにより、次第にキリスト御自身に惹かれるようになった。「神はその独り子を給うほどに、この世を愛してくださった。信ずる者の滅びずして永遠の命を得んためなり」。キリストが池田公榮のために十字架にかかり、復活してくださり、罪を清算してくださったことを知ったとき、キリストへの信仰に導かれ、1953年まだ春早き2月28日、川内川にて洗礼を受ける。このときのD宣教師の愛と忍耐は一生忘れることはできない。ペテロが告白した「あなたは神の子救い主です」の言葉は、以後、信仰告白の見本となる。この告白の中に、キリストを信じることの意義が込められている。 

 2、神学校へ(ロマ1:29、ロマ10:15) 当時私は川内市役所に勤務していた。初任給4000円の駆け出し吏員であった。入所してみて、驚いたことは派閥の見苦しさであった。また、組合運動もいやであった。好きなコーラス活動を通して気分を紛らわせたものの、どうにも我慢できなかった。聖書の世界と現実があまりにもかけ離れていたことへの葛藤であった。@ 言葉、思いよる罪。あらゆる不義と悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念等。A 行為による罪。陰口、人をそしる、神を憎む、人を侮る、高慢、大言壮語、悪事のたくらみ、親への反逆。B 善の欠如。無知、不誠実、無常、無慈悲(以上ロマ:29−31より抜粋)により、心労は限界のきわみに達し、宣教師に相談する。師は「人は生まれながらにして、罪深きもの、それは死に値するほどの神への反逆の結果である。人が救われるのは、キリストを信ずるの外なし。」と諭された。一条の光は私の心を捉え、是非、神学校へ学び、「福音伝道を一生のこととしたい」と決心。「語る者がいなくてどうして信じることができようか。ああ、麗しきかな、主の道を説く者の足は。(ロマ10:15)」の聖言に励まされて意気洋々と上阪した。時は1954年3月の末。

 病身の親をおいて進学することははなはだ親不孝の限りであるが、親も進学を勧めてくれたので、一念発起大阪聖書学院へ入学した。以後、妻とも出会い、結婚し卒業の暁には鹿児島県種子島へ牧師として赴任した。

 3、種子島伝道と牧会 (ロマ8:28) 種子島は離島ではあるが古今より、東西文化の通過点でもあった。鉄砲の伝来、ザビエルの寄港、カシミヤ号の救助など話題に尽きない。現在は日本の実用衛星の発射基地があるところである。神学校卒業ほやほやの青年は1958年4月13日、西之表港に到着、以来45年間、この地でありとあらゆる布教の努力をした。しかし、かならずしも、宣教の実が挙がったわけではない。この地の特徴に「新しい物好きの飽きっぽさ」がある。赴任当初は会堂に入りきれないほどの集会を持ったが、次第に、求道者は減ってきた。しかし、主は大きなダイヤモンドを掘り当てたように、伝道者となる者を起こしてくださった。榮義之師、息子の池田基宣師である。彼らは今奈良、大阪で主の御用を務めている。反面、教会の付属事業の幼稚園は大いに祝福された。少子化社会の中で、子どもの教育にはお金をかける風潮が幼稚園事業を栄えさせた。家族も大いに祝され、子ども5人、孫9人となり、それぞれにキリストの枝につながっている。

 2004年5月、一切の仕事を後輩に託し、妻と二人で九江へ。ここは、かって私が育った場所。日中友好の拡大を願い、生徒たちを中心に交流している。また、同じ主を信じる兄弟姉妹の信徒の皆さんと共に主を配することの現実をこよなく感謝する。

終わりに、御言葉を二つ
@「神を愛する者、凡てのこと相働きて益となる」ロマ書8:28を信じて、み名を賛美しつつ、今後を生きたい。
A「キリストを信じなさいそうすればあなたもあなたの家族も救われます」使徒行伝16:31
* 老人のひとりごと ……2006/09/19…
9月18日。今日は敬老の日。

 今、
 
 80歳代は戦争に狩り出されたり、外地で国家のために働かされた経験者。

 70歳代は銃後において先の大戦を直接間接に体験した者。本土空襲や原爆の体験者。
 
 60歳代は戦後の日本の食料他物資不足体験者。

 50歳代は戦後民主主義教育で育った者ということになろうか。この世代ごろまでが先の満州事変・支那事変・太平洋戦争・終戦と戦後を語り継ぐことのできる年代である。年とともに、戦前・戦中・戦後の体験者は少しづつ減少し、代わって戦争を過去の出来事としてしか知らない世代に入れ替わってくる。   

 最近気になることは、若い世代の先祖がえり、右傾化である。近時の中韓の歴史教科書問題や、首相の靖国参拝を問題視することや、中国の尖閣列島の一方的開発や領有権の主張、韓国の竹島領有権の主張、ロシヤの北方領土の未解決、漁船拿捕などが若者に危機意識をつのらせるのだろう。これは動物的自己防衛の反射本能かもわからない。近隣諸国が怖いと思うとき、防衛意識から排斥主義、国粋主義が起こると思う。

 だからといって、彼らを「そうだ、そうだ。しっかり守れよ!」とばかり焚きつけはならぬ。世代の交代期にあたり、戦争を直に体験したものは、後世に戦争の愚をとことん伝えねばならないと思う。

 同様のことは中国、韓国、ロシア等周辺諸国にも願いたいことである。いったん戦争という手段で国益や国権を守ろうとすれば、スポーツ競技と違って、その被害たるや甚大。多くの命、財産が損なわれ、地球も痛められる。

 かかる悲劇、損益を避ける方法は教育によるしかないと思う。

 第一の教育者は老人。彼らは率先して若者の範囲にならねばならない。善を勧め、悪を遠避ける生活実践。人が喜ぶことを進んでする姿勢を生きなければならない。

 第二は教育内容と教師の権威。特に読み書きの徹底。道徳心涵養。数学的手段による理論と証明の技術。国際教育である。互いに自国の国策ばかりにかたよった教育をするのでなく、まず、人類が共存共栄するための智恵を出し合い、協力をしなければならない。しかるのちに、周辺諸国の青少年の交流をどの国も積極的に行なう環境を整えるべきではないか。そうすえれば、彼らは話し合いにより、共存の道を見出すであろう。教師の権威は特に大切である。

 現今、公立学校が荒れ続け、一部不心得者によって、まともな授業が成り立たないという。まことに残念である。体罰否定による指導方針が強すぎるため、子どもに舐められている。教師は体罰して免職になることを恐れ、いい加減になる。体罰を肯定はしないが、時と場合によっては体罰も必要。そのためには、学校、保護者、社会がコンセンサスを共有する必要がある。 

 愛の鞭が必要。


写真:廬山に上ったときに撮影。ススキのようでススキでもないような名を知らぬ植物。なんとなく心引かれる。
* 突然のサイレン ……2006/09/19…
2006年9月18日月(晴れ)在九江

突然のサイレン

午前10時ごろ、突然サイレンが1分間隔で3回鳴る。太平洋戦争時の空襲警報を思いだした。授業のとき、生徒に聞き、「柳条湖事件の日」「9・18事変」記念日のサイレンとわかった。

日本はこのときをきっかけに、中国との戦争状態となり、双方に多大の犠牲をもたらした。

中国政府は日中戦争を今に至るまで、忘れてならない記憶として国民に教え込んでいる。日本では歴史教科書にしか出てこないことが、中国ではなお生々しい事件として位置づけている。

事件発生後70年を過ぎて、なお、このような記念行事を行うのはなぜか。彼方には、

@「油断するな。歴史は二度繰り返す」(護国)なの  か、
A「難癖つけて日本侵略を図りたいのか。」
B「難癖つけて、賠償金に代わる金員をせしめたなの  か」。
C「鬼畜日本!」と吠え立てて「目を内政から外へ向  けさせる」ためなのか。

 その真意は中国中枢の限られた指導者にしかわからない。いずれにせよ、ひとたび起こした誤りが簡単には済まされないことを日本人は知るべしである。


以下参考。

【今日は何の日?】1931年:柳条湖事変
2006/09/18(月) 05:30:01更新


  1931年9月18日、関東軍は奉天(瀋陽)郊外にある柳条湖付近の南満州鉄道を爆破した。この柳条湖事変の結果として、現在の東北地方と内モンゴル自治区の東部は「満州国」として中国から切り離されることになった。

  関東軍は南満州鉄道の爆破を「張学良が率いる東北軍のしわざ」とし、これを口実に奉天を攻撃した。ただし、爆破は関東軍の謀略であったことが明らかになっている。

  中国では「柳条湖事変」を、日付にちなんで「九・一八事変」と呼んでいる。翌19日、関東軍は奉天に続いて吉林、黒龍江を占領、1932年1月までに東北三省を支配下に置いた。

  こうした日本軍の行動に対して国際世論の批判が高まり、国際連盟はリットン調査団の派遣を決定した。日本は調査団が到着する前に占領地帯の中国からの切り離しを図り、1932年3月に「満州国」を樹立した。

  「満州国」は清朝最後の皇帝であった宣統帝溥儀を執政として「五族(日本人・漢人・朝鮮人・満人・蒙古人)協和の王道楽道」を国是としたが、実態は日本の傀儡(かいらい)国家だった。溥儀は1934年に皇帝に即位している。

  柳条湖事変から満洲国樹立までに行われた、日本軍の中国東北部への武力侵攻を「満州事変」と呼ぶ。1945年、ソ連軍の侵攻により満州国は崩壊した。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)

■関連用語< 【満洲国】 >< 【九一八事変】 >


写真説明

写真右:九江学院に入学した新1年生。軍訓(軍隊訓練の略)中に、木陰に一休みする学生たちは屈託が無い。早くも、勉強?に取り組んでいる学生もいるみたい。

写真中:軍訓の最後は新入生全体が集合し、行進のセレモニー。

写真右:学院内に芳香を漂わすキンモクセイ。癒されますね。
* オーソドックス廬山登山 ……2006/09/24…
2006・9・23九江教会の野外礼拝

午前6時家を出て、十里大道の待合場所に集合。

旧道を通って廬山へ
 今は車で30分たらずで廬山に行ける。だが、昔から使用された登山道路も今なお使われている。今日はこの古い道を通って、教会の皆さんと一緒に廬山ハイキングと野外賛美礼拝に参加した。

 まず、登山道であるが、麓までは車で、あと徒歩の登山。上りながら、小生小1のころ、この道を竹駕籠に乗せられて上ったことを思い出した。人二人が歩けるほどの狭い石段や、見下ろせば千尋の谷で目がくらみそうな場所を通った記憶があるが、今日もそのような場所を見ることが出来た。健康のためには、ここを利用しての登山はすばらしいと思う。

 8合目くらいの踊り場で野外礼拝と賛美礼拝。賛美歌の歌声は向かいの岸壁にこだまして、われわれの歌に溶け込んだ。小生は請われて、今日では世界共通語のハレルヤαλληλυια(神に賛美)・インマヌエルΕμμανουηλ(主は共にいます)・マラナタμαρανα θα(主よ、来たりませ)・アーメンαμην(その通り・誠に)の聖書の言語をそのまま音訳した言葉に曲をつけた歌を披露すると、皆がとても喜び、教えてくれということになって、歌唱指導をした。

 賛美をうたっていると、上下山の人々もしばし足を止め、賛美を聞いてくれる人もいる。「わたしも、クリスチャンだ」と名乗る人もいる。行きずりの人の中にまた同信の兄弟姉妹がいることを知らされる。

 下山したのは午後1時過ぎ、空腹になって田舎料理を教会の兄姉といただく。野菜を主とした料理でおいしかった。

 ひとつ残念なことは、名も知らぬ山野の草花を撮ることに夢中になって、急斜面,急石段を上り下りする多くの登山・下山客をカメラに収めることを忘れてしまったことである。


写真説明

左:廬山のぼり口 1940年代までは自動車でいけなかった。廬山の上り口はここから始まり。やがて人一人通れるような幅の急勾配の石段や、千尋の谷を見下ろす崖っ淵をとおる。

写真中:登山途中で、眼下にはいろいろな景色が見れる。ここは日本の仏教徒が寄進しリニュアルした鉄仏寺。

写真右:8合目あたりの踊り場で、賛美礼拝をした後の記念写真。ここまで来た人は、参加者全体の3分の1。妻も途中でダウンし、隊列を離れ中腹の踊り場で待った。前列最左筆者。
* 変わったこと・変わらないこと 九江 ……2006/09/25…
2006年9月25日月(晴れ)在九江

 この3年間で変わったこと変わらないこと
九江に住んで3年目を迎えたが、この間に急に変わったことがある。

第1 路上の青空店舗。
 道路のいたるところが、デパートの安売り場よろしく、戸板ごときものに商品を並べて商売をする人が多かった。インスタント食品売り場。蒸かしたての饅頭、湯気の立ちあがるラーメンなど、ちょとした食べ物なら何でもあり。学生やサラリ−マンは大体この露天食堂で軽食をとって登校したり出勤したりする。その他、小間物、間食食品、穀類、生鮮野菜、肉、魚、衣類、宝石、古本、漢方薬などありとあらゆるものが並んでいた。ところが、2005年1月をもって、当局の方針により、これら露天店が締め出された。上記の店があったときは、確かに交通の邪魔にはなるし、生鮮食品は屋外の風雨にさらされて不衛生感があったが、呼び込みの声や、値段の駆け引きをしている客やらで、なにやら日本の縁日のようで活気があって、「これが中国か」という感じがしたものだ。観光客には結構興味のある風景であったと思う。そんなことで、少し寂しくなった気もする。

 第2 交通マナーの改善。
日本から中国に来て100パーセント人が驚くのが交通マナーの悪さ。人は車を出し抜き、車は車や人を出し抜くために、ありとあらゆる予期せぬ現象が生じたものであった。ククションは鳴りっぱなし。横断中に車と接触しても平気でなお直進する人の波。結構、人が車の流れを邪魔していたと思う。ところが、これも当局の方針により、2005年1月から道路交通法の施行が厳しくなり、九江は今整然としている。信号を「守るようになった」というより、「守らされている」のほうが正しい表現かも。横断歩道には腕章をつけた指導員が(多分警察の委嘱)おり、ホイッスルを吹きながら、流れをコントロールしている。観察していると、車より人の方が交通規則を守らないようである。指導員は、ホイッスルとジェスチャーで違法な横断者を指導している。

第3 若者たちの雰囲気
 若者たちは夕方ともなればカップル同士で手をつなぎ、寄り添っている。それが学院キャンパス内でおおツぴらに。実に自由な雰囲気である。だが、すべての学生がそうというわけではない。大部分の学生は勉強に力を入れている。
 また、茶髪や刺青の学生もちらほら見かける。いや、髪の色はうすい栗毛にそめている者は結構いる。以上を総合すると、若者たちは自由に自己表現をしていると思われる。

第4 巷は建築・インフラ整備一色
 最後に、町の雰囲気は建築ラッシュと公園整備。高層の建築物がニョキニョキと立ち上がり、今なお継続中である。公園や緑地帯もふんだんに確保され、整備中である。新しい道は凡て50メーター幅の6車線。中央帯が確保され、樹木が植えられ、芝が張られている。九江市は100万都市になるべく都市計画実施の真っ最中である。
 
 註:日本は都道府県市町村であるが、中国は特別市、省、市、県、鎮、村である。日本とは県と市が反対。ちなみに、江西省九江市は480万人であり、その中の九江が約100万に成ろうとしている。
 
第5 中国らしさを見るには田舎にかぎる
 都会といわれるところは、東京も大阪も、上海も、南昌も九江もみな同じ。広い通りに面して高層ビルが並び、一晩中車が流れ、照明が輝き、店舗や銀行が並ぶ。多数の人が通り、派手な看板がある。もし、その国の本当の姿を見たければ、田舎を見ることである。田畑や森のある田舎へ行けば、その国の歴史を残した文化にめぐり会える。中国にして然り。トイレが筵で仕切られ、跨いで用をたす。強烈なアンモニアが鼻を突く。そういった場所がその国の文化であろう。


写真 左:長江大橋。長江にかかる多目的大橋。上は車道。下は鉄道。向側は湖北省。

中:長紅大道。近年に整備された通り。昔は畑や丘陵地帯だった。

右:廬山で撮影した名も無い花(実際には名前があるのだろうが図鑑の持ち合わせがなく、今のところ花の名前がわかりません)。でも、名も無い花が見れるところが、その土地ならではのきわめつけ。
* 日中合弁会社で強力磁石生産 ……2006/10/03…
2006年9月30日土日(曇りのち雨)在九江

 贛州(かんしゅう)から、河村信彦氏を迎える。現在贛州昭日稀土新材料有限公司総経理(工場長)の肩書。佐賀県唐津出身。

 河村氏とは電話で話したことはあったが、対面は今回が初めて。面識のきっかけは、九江学院日本語科の紀珂学生。彼女が夏休みに帰省中に、贛州昭日稀土新材料有限公司にアルバイトとして雇ってもらったことがきっかけで、この九江まで足を伸ばしていただいた。

 稀土新材料の生産工場を日中合弁で立ち上げるため、目下奔走中とのこと。

 この会社の特徴は、親会社が昭和電工株式会社で、中国贛州にある稀土という鉱物から強力なマグネットを作る会社だそうである。従来の磁石より30倍もの磁力をもつ製品で、家電、IT製品、発電機、モーターや精密機械制御等広範囲な利用がある今日、とても省エネ効果があり、製品の差別化ができるそうである。

 現地生産に踏み切った理由は、原料調達の容易さを選択したことと、かかる希少価値の資源を中国が輸出規制していることから贛州を拠点とすることになったそうである。

 2007年6月までに工場建設、機械設置(日本より)、7月創業開始予定。一度見学させてもらいたい。
 
 出資率は日本90%、現地法人10%の合弁。

写真:九江を訪ねた河村氏
* 獅子洞へ ……2006/10/14…
廬山麓の鍾乳洞へ

  教会の帰りに、九江県沙河教会の案内で廬山麓にある獅子洞という鍾乳洞窟へゆく。石灰岩層が長年にわたって洞窟化した洞穴。

  鍾乳洞があるということは以前この一帯が海だった証拠である。石灰岩の形成は珊瑚等によってなされるわけだから、中国のこんな内陸も昔は海だったことになる。地球の営みは計り知れない。

 写真:獅子洞入口で沙河教会の皆さんと九江学院の学生、妻、小生。
* 外国人教師の晩餐会 ……2006/10/14…

国慶節を祝って

国慶節と中秋節を祝い、九江学院より外国人教師の招待があり、妻と小生出席。

学校差し回しのバスに乗り、市内の豪華レストランへ。メニューは中華料理。おいしかったけど、少しお腹にもたれた。

九江学院の外国人スタッフは日本、米国、ニュージーランド、オーストラリア、インド、カナダと多国籍。一同に会する事はあまりないので、顔見知りのよい機会でもあった。


国慶節

中国現中華人民共和国政権の建国記念日。1949年10月1日、国民政府軍と中国共産党軍の主導権争いに決着がつき、蒋介石政権は台湾に退き、海を隔てての戦いは終結した。

中国共産党毛沢東主席は10月1日、北京天安門で中華人民共和国のスタートを宣言した。

国はこの日を記念し、国民の休日とした。学校は1日から7日まで一週間の休みが続く。この週を中国のゴールデンウィークともいう。

夜は九江市でも花火が打ち上げられ、お祝いムードであった。


写真:学院主催の祝賀招待で外国人教師七堂に集まる。
* 中秋節 ……2006/10/14…
2006・10・6(金)晴れ、在九江

中国は中秋節をとても大切にし、一般企業もこの日は休む。

 家族打そろい健康と家内安全・商売繁盛を祈る。彼らは、晴天であれば、屋外に出て、敷物に座り、月を眺めながら、果物や月餅を食べ夜更けまで語る。おばあさんのそばで子どもがじっと聞き耳をたたて動かないということは、中秋に関わるよほど興味のある伝説か昔話でも語り聞かせているのだろう。

 こんな光景は昔日本の普通の姿だったが、今は子どもはゲーム機、おばあさんは特別養護老人ホームだろうか。
 
 我が家の中秋節には学生を招待していたので、日本風の飾りをしようと思い、10月5日の前日、廬山のふもとまで歩きススキの穂を捜した。往復15キロほどあっただろうか、やっとススキと萩を見つけ帰宅した時は日もとっぷり暮れていた。妻が迷子になったのではないかと心配したそうである。

【 蘆山路を 日の本思い すすき採り 】碧石!!


  さて、我が家の中秋節は部屋にススキと萩果物、家内手製のおはぎを飾り、雰囲気を出して生徒たちをまった。

  生徒たちもはみかんやユーズというザボンに似た果物を持参してやってきた。ユーズは丸くて黄色、子どもの頭大であるので、月に見立てるのだそうである。

  月はどうかというと、日本の月のように冴えていない。薄ぼんやりの朧月夜である。大気が汚れているせいだろう。

 【名月や 東のかたは いかがなる】
* 七十三回目の誕生日 ……2006/10/14…
九江学院で生徒たちが祝ってくれた。

10月12日(木)。73歳の誕生日を九江で迎える。

 誕生日を知っていた国際交流課の職員の皆さんや学生の皆さんから「おめでとう」の挨拶と記念品をいただく。この日だけは、ただただ幼子のごとく、素直に感謝!感謝!の気持。
 
 感謝すべきは他にもある。この世に生を受けたこと。父や祖父や母たちに厳格な教育を受けたこと。学校や社会の諸先生に教えを受けたこと。友人たちに、たくましく鍛えてもらったこと。物不足の戦後に生きたおかげで、足ることを知る智恵を得たこと。創造主を信じたこと。救い主を信じたこと。助け主を信じたことである。
 
 73歳という年齢には特に感謝。祖父も、父も72歳で他界した。自分は先祖たちよりすでに長生きしたことになる。これからの余生は預生、与生として人の役に立ちたい。少しでも喜ばれる時を過ごしたい。
 
 自由と権利を保障してくれる自治体や国にも感謝。だから、諸義務も精神誠意をもって果たさねばならぬ。

写真:学生が準備したケーキを前に、妻と二人で。

写真右:自由な時間は落ち葉で堆肥を作り、野菜を植えて食卓に運ぶのが楽しみ。
* 運動会 ……2006/10/27…
10月26日(金)

 九江学院の運動会。澄み切った青空ならぬ曇天であったが、小雨のなか、開会式が開かれ、教師も全員参加するとのことであった。

 3万7千人が入るスペースが無いので、新1年生を中心に実施。2年生以上は見学か自主学習ということになっていて、授業はない。

 今年の開会式で例年と違ったのは、インドの留学生が全員参加したことである。九江学院ではがき黒人留学生を積極的に受け入れる計画だそうで、今年はその第一陣50数名が留学し、学院宿舎に入寮している。全員中国医学を勉強すいるための留学だそうだ。
民族衣装をまとって、拍手の音がひときわ高かった。

写真 運動会風景
左:入場式で民族衣装をまとったインドからの留学生
中:応援団風景(外語学部コーナー)
右:会場の雰囲気造りも大事。気球に大会文字布を下げている。
* 友好の部屋・「静」の開所式 ……2006/10/27…
準備

2006年10月23日月(晴れ)在九江

 日中友好の部屋飾りつけ
奈良県大和高田市の友好訪問団先発隊として、同友好会の事務局長横山則夫氏が昨日夕方九江入し、友好の部屋の飾り付け作業に入った。

 友好の部屋常設のいきさつは、九江学院の教職員と学生が身近に日本の文化に接することのできる展示資料室を作る構想のもと、高田九江友好会の樫根修弘会長が九江学院に申し入れていたものが、学院側より応諾され、開設に至ったものである。


2006年10月24日火(晴れ)在九江

友好の部屋飾りつけ
 市内に繰り出し飾り付けに必要な材料を買いそろえる。テーブルに敷く布とか、写真を飾る額とか必要なものを店の言い値ではなく、それより約3割安く買う交渉がなかなか横山事務局長なれていらっしゃる。彼は日本企業の上海出張員として、3年半上海で過ごされたそうで、さすが、買い物は上手である。

 材料がそろったところで、部屋のレイアウトを考えながら、資料の展示作業にかかる。夕方暗くなるまで学生の手伝いももらいながら作業を進めたが、1日では終わらなかった。

2006年10月25日水(晴れ)在九江

友好の部屋飾りつけ
昨日に引き続き、友好の部屋の飾り付け作業をする。レイアウトが出来上がったところで、陳列したり、壁に写真を貼ったりした。

この日は、後発の本隊が樫根会長初め、大阪―厦門経由で南昌入りし、全員無事に九江学院に到着。

 生け花の準備とマネキンへの着物の着せつけは友好団の婦人連が手際よく進める。一応、部屋の設定と飾りが出来上がった。明日はいよいよ開所式。


2006年10月26日木(曇り)在九江


友好の部屋開所式

午前9時に一同、九江学院貴賓室に導かれ、大和高田市・九江市友好協会の各団体長と関係者の集まる中で、訪問の挨拶・歓迎の挨拶を交わし、そのままバスで第5教棟へ向かう。

 教室の入り口で九江・高田友好の家の開所式を行い、テープカットに及ぶ。日本語学科の生徒も多く参加した。

 この日は、ゲストとして、スズキ自動車の日中合弁会社の総経理清水氏も出席された。

テープカットが終わったところで、友好の部屋に入り、展示物の観覧、続いて、隣室に設けられた教室で交流会が開催された。

 交流会には、茶道のお点前、着物着付け披露があった。お点前は事務局長の横山氏。正客は九江友好会長。着物のモデルは国際交流センター長の黄さん。

 あと、食堂へ移動、学生も含めて昼食の会食。午後は、先の交流会場でカラオケ大会を開き、和やかな一日を過ごす。

 午後4時10分、一行は、九江市のレセプションに出席するため、会場移動。学院での行事は以上で終わった。

今後、この友好の家は「静」という愛称で呼ばれことになる。「静」の由来は、かの義経の愛人静御前の出身地が大和高田市だそうで、その故事により。

 以後は、友好の部屋が、図書なども暫時充実し、学生たちや関係者に有効に利用されるよう内容充実を図っていきたい。


写真左:貴賓室に案内され開会式を待つ
写真中:「静」九江・高田友好の部屋のテープカット
写真右:開所式参加者一同

* 「静」交流室その2 ……2006/10/27…
これから九江市・大和高田市友好の部屋は「静」と呼ばせてもらう。

以下、開所式当日の写真集

写真左:樫根会長と九江友好会長の表示板前での握手

写真中:「静」の室内で展示物に見入る関係者

写真右:着物の礼服も展示されている 
* 「静」交流室その3 ……2006/10/27…
これから九江市・大和高田市友好の部屋は「静」と呼ばせてもらう。

以下、開所式当日の写真集

写真左:交流会で使われた茶道具一式。高田友好会からの奇想。

写真中:横山事務局長のお点前

写真右:正客がお茶を試飲 
* 九江・高田友好会スナップ ……2006/10/27…
写真左:貴賓室を出てテープカットに臨むところ

写真中:和服のモデルになった国際交流センター長の黄さん(なかなかお似合いです)

写真右:「静」室内の生け花
* 教会堂献堂式 ……2006/10/28…
2006年10月28日土(晴れ)在九江

九江市基督教会献堂式

 2004年5月に定礎式を行い、2006年7月に完成。2000人収容の教会堂で、大きさにおいて、江西省一の会堂という。

 午前8時半、献堂感謝礼拝を行い、南昌市から謝牧師の説教を受ける。午前10時に、市の行政からの出席もあって、落成式が行われる。

 従来の教会は市の中心地で、交通は便利であったが、狭いため、早朝礼拝と午前9時半からの礼拝に分けて行われていたが、この会堂が出来たので、一度に全員が集まることができる。

 会堂は基督信者たちにとって、賛美、祈り、学習、交わりの場である、すこぶる大切な施設である。

 落成祝賀会では、幾人かの九江市人民政府等の来賓の祝辞があり、雰囲
* 九江・高田友好会長来訪 ……2006/10/29…
2006年10月29日(日)

樫根会長他友好会のメンバーの来訪

  樫根修弘九江・高田友好会会長とほかメンバー一行4名の来訪を受ける。友好の部屋「静」の今後の運営方法などにつき話し合う。学生や関係者に有効に利用してもらう工夫が必要ということでは意見が一致し、次のようなことが当面の努力目標となる。

 @、いつも同じ展示等では新鮮味も欠けることだろうから、時々、レイアウトを変えるなり、工夫を凝らす必要があること。

 A、展示の内容を今後とも徐々に充実させる必要があること。

 B、適当な管理者が必要なこと。
国際交流室とも相談し、良い方向に進めるよう努力したい。


写真左:九江市烈士公園より九江学院を望む。正面の白っぽい建物郡が九江学院。現在3万7千人の学生がいる。

写真中:樫根修弘会長他友好会のメンバー。この4名はしばらく短期留学生として九江学院で学びをされる。

写真右:烈士公園への途中で菊花がさいていた。日本もそろそろ菊の花が咲くころだろう。
気がもりあがった。教会に行政からも出席するほどに、教会の存在感があるようになった。

 午前11時からは教会員の賛美や出し物で会場を盛り上げた。近郊の姉妹教会からも、祝いに参じ、舞踊などの出し物で会場が盛り上がった。

写真左:礼拝での賛美。合唱団が賛美を歌う。
写真中:祝賀会に出席した来賓の記念写真。
写真右:信徒たちによる出し物。