池田公栄・九江学院日本語教師日記
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虹の架け橋
平成19年1月1日〜3月31日
* 2007元旦日記 ……2007/01/02…
九江の元旦は雨に始まった。

 西暦は2007年、平成は19年。大東亜戦争から数えて67年。終戦から数えて62年。

 信仰を与えられて54年。結婚して49年。この数字は、自分の伝道生活、幼児教育期間、種子島居住期間とも一致する。神のお導きとご加護により、今日まで幸いな日を送ることが出来たことに感謝。
 それにしても、今日イスラエル(ユダヤ)人の先祖ヤコブの生涯を読んで考えた。ヤコブはどうして自分の生涯は幸いではなかったといったのだろう。兄との確執。叔父との確執。神との確執(ヤボクの渡しでの格闘)があったからだろうか。兄はヤコブを許し、叔父(舅でもある)はヤコブと娘たちと共に故郷へ帰ることを許し、神もまたヤコブを許したばかりか、大いに祝福されたのに。彼は自分に悔いが残り、あのような告白をしたのだろう。

 確かにヤコブはずるくて狡猾なところがあり、兄や舅にも嫌われた。ある意味、ヤコブの子孫たちも今日必ずしも好意をもたれていない。ユダヤ資本が世界の経済を動かしているといわれているが、経済力だけでは人は幸福になれないということか。

 昼は教会の役員宅に年始挨拶に行き、昼食を馳走になる。中国の教会発展について大いに語り合う。感謝のひと時であった。

 夕方は学生21名が果物や年賀にあたるカード持参で新年の挨拶に宿舎へやってきた。大いに語り、食べ、そして記念写真を撮る。

写真左:教会の役員宅で写真中:来訪の学生たちと宿舎で写真右:雨にぬれる学院風景
* 今年はどうなるー九江学院 ……2007/01/22…
九江学院は年々成長している。

学生も増加傾向。それに伴い、校舎の増築が行われている。

第2運動場の整備も進んでいる。

江西省一大きい体育館も完成し、機能し始める。

外国からの留学生を受け入れる。さしずめ、インドからの医学部へ中医の勉強に約200名受け入れている。

日本の熟年留学生も徐々に増えている。

そこで働く私も活き活き。幸いなことである。日中友好が広まるといい。

写真左:増築が進行している現場
写真中:インドの留学生たち
写真右:2年生は進級し、最上学年になる。彼らも、一生懸命学習し日本語を生かす仕事につくであろう。

* 長沙を訪問 ……2007/01/22…
一度訪問したかった所ー長沙

長沙と鹿児島市とは姉妹友好都市。相互に往来して久しい。

辛亥革命の志士黄興は、西郷南州翁を慕い、西南戦争後まもなく鹿児島へまで墓参に来ている。この人、別名小西郷と呼ばれた人物。体格は若干西郷さんより小さいが、風格が西郷さんに似ている。明治維新に学びたいと日本に留学した黄興は、西郷さんを慕うあまり、その風貌も西郷さんのイメージになったのだろう。

現在は黄興が学んだ岳麓書院はその遺構を残しながら、山麓周辺は名門の湖南大学と成っている。

長沙大学で教鞭をとっている中原理恵さんを訪問。訪問というより、彼女の案内と接待をうけ、大いに旅を楽しませてもらった。彼女は鹿児島県宮之城のひと。私がかって学んだ川内高校の後輩に当たることがわかった。偶然にしては出来すぎ。神様は粋なことをなさるものである。

雨の長沙
私と妻が念願の長沙を訪れた日はあいにくの雨であった。でも、雨であろうと天気であろうとそんなことは関係なかった。とにかく、黄興の墓を訪ねたかった。念願はついにかなえられた。感謝!

岳麓山へ
折りしも、湖南には寒波が来襲し、霙交じりの天気だった。長沙大学日本語科の夏さんと、陳さん、それに教師中原さんに案内され、岳麓山へいった。山は城山ほどの大きさと思った。だんだんに急な石段を登る足しどりは軽かった。一行5名のうちで一番自分が元気だったと思う。妻は途中で、力尽き、「ここで待っているから先に行って!」といった。妻には悪かったが、一刻も早く黄興の墓にたどり着きたかった。「そうか」といって、霙のなか、妻をおいて墓を目指す。ついに、到達。墓は、山の中腹に踊場のような場所を築き、そこにあった。約30坪の広さか。他の志士たちの墓を見下ろすように最上段にもうけられていた。

世が世であれば、黄興は、南京の中山稜にも劣らぬ扱いを受けたはずである。たまたま、毛沢東もここ湖南省の出身で、彼の築いた政権がいまなお中国を治めているから、毛沢東の上位に置くことはできないのであろう。

わたしは「黄興先生、ついに来ましたよ」とつぶやいた。黄興はいま何を考えているのだろう。「志、いまだ成らず」とつぶやいているのであろうか。

岳麓山にある黄興の墓は雨にかすんではいたが、「我愛中国」ヲ アイ チュウングオ といっているような気がした。

【 小西郷 霙のなかに 民まもる 】

【 霙降る つわものどもの 夢のあと 】

写真左中:霙と霧にかすむ黄興の墓と銘碑
写真右:長沙大学で中原先生と池田公榮・久子
* 長沙路 ……2007/01/22…
写真左:黄興墓に通じる路

写真中:岳麓書院にて(いまは資料館)

写真右:岳麓書院鳥瞰図
* 長沙をあとに関西へ ……2007/01/23…
心残れる思いで長沙を離れることになった。

 長沙には他にも見るべきところは多くあるが、今回は岳麓山だけで十分。女性のミイラなどもあるが、それらはまたにしよう。

 私と妻は1月14日、一路上海経由大阪ヘと飛んだ。

 ここでは、日本留学を希望する中国人学生のために奨学金を出そうと申し出た人に会うためと、熟年留学を目的に九江行きを計画しているW氏に合うこと、九江まできてくれた教会の栄牧師の安問、妻の弟家族の安問、宝塚にいる息子家族の安問、九江高田会の樫根会長さんに会うのが目的だった。いずれも、約1週間でクリアーできた。

写真左:長沙の市街写真
写真中:岳麓書院の屋根
写真右:義弟夫婦を訪ねて
* 長沙路2 ……2007/01/22…
写真のみ
写真左:愛国者たちが学んだ教室の一部

写真中:陳天華(黒マントのひと)、黄興(左2人目)等辛亥革命の推進者たちの多くはここから排出した。

写真右:「脈正南道」の額。道は南からとでもいおうか(如何読むか分からない)湖南人の意気込みは、科挙となることではなく中国のために何をなすべきかが学生たちのモットーであった。
* 関西では1 ……2007/01/23…
関西では

60年あまり、大阪西成区で一日も欠かさず、近隣のホームレスや日勤労務者が仕事がなく食事に事欠く場合、パンや炊き出しをしている大阪救霊会館を訪ねる。

ここの牧師は一昨年6月、中国訪問のとき、九江にまで足を伸ばしてくれたひと。おかげで、月一回、中国田舎の教会で福音のメッセージをすることになったきっかけができた。その後の報告も兼ねてこの教会で、福音の証をさせてもらった。

写真左:メッセージを取り次ぐ池田公榮の紹介

写真中:集会に出席した労務者男性とともに

写真右:炊き出しに与る人々の列
* 大和路 ……2007/01/23…
大和路

大和高田市はかれこれ19年前から九江市と友好交流事業を継続しておられる。

 きっかけは、一中国人婦人がこの市で中国語を教えてくれたことで、高田・九江友好交流が始まったそうである。すなわち、この中国語先生の故郷が九江だったわけ。このようなことで、高田・九江友好会では九江学院へ日本語を教える教師を派遣したり、日本文化に関わる、茶の道具や和服、写真、図書、DVDなどを九江学院の一室「静」の部屋に展示したりして、学生や教師の日本理解の一助としておられる。

 私は鹿児島人で、九江・高田会の会員ではないが、懇意にしていただくようになり、以後、お付き合いが始まった。特に、熟年留学制度の道を拓いてくださった意義が大きい。

 樫根会長は、われわれ二人を、かって熟年留学生として九江市で知り合ったTKさんと共に、明日香、吉野の大和路を案内してくださった。

 いにしえの明日香をしのび、渡来人も来て日本に貢献し、かつ、骨まで埋め、帰化したであろうことに思いをはせ、今日の日本の礎を築いた先人たちの足跡を感動をもって見聞した。

 吉野では桜の時期ならぬ正月、まだつぼみの形さえもない桜の梢を見ながら、頭の中に、見事な桜が開いた。

 九江にも、60年前に、わが父が同仁会病院で働いていた折、日本人の誰かが植えた八重桜が4月になると花開くことに思いをはせた。

 桜を愛する心は国境さえも越えるのだと。九江のさくら、今はかなりの大木となって九江市民を楽しませている。

【大和路に 唐くに人の 魂椿 】

【山茶花や 明日香の歴史 語りおり 】


写真左:大和明日香村 遺構に立つ樫根会長、妻、TKさん

写真中:吉野路

写真右:義経と静が頼朝の追っ手を逃れ隠れていたという庵への案内
* 講壇に立つ ……2007/01/23…
講壇に立つ 

2007年1月18日、大阪聖書学院(50年前の学びや)のチャペルで「種を蒔く」ことについてその恵みと、心得について語る。

19日、生駒聖書学院でも伝道者養成学校なので同じ話をする。

21日、息子夫婦が牧会している宝塚恵み教会では老いて益々楽しくなる話をする。大阪の兄弟たちがそろって出席してくれたことがとても嬉しかった。他人には伝道できても、身内を信仰に導くことはなかなか難しいことである。今回は、自主的に教会へ足を運び、礼拝に参加してくれたことは、私が信じている神に心が向いたことでとても感謝。信仰は、強制されるものではない。自分で選ぶものである。しかし、神は機会を捉えて一人ひとりの心を開き、天来の恵みと平安に与ることができますように導いてくださるから感謝。



写真左:大阪聖書学院の講壇

写真中:生駒聖書学院の講壇

写真右:宝塚めぐみ教会での講壇
* 子ども家族と交わる ……2007/01/23…
次男の家族と一週間を過ごし孫たちとも十分交わった。

21日、礼拝を済ませ、午後の便で大阪をあとに、宮崎に飛ぶ。長女夫婦の大坪君の出迎えをうけ、一晩孫たちを含めた交わりを感謝!婿のご両親、次女の婿図師家実家のお母様にも年賀を済ませる。皆さん、それぞれ高齢になっておられるが、みな明るく暮らしておられるので感謝。

22日、大坪夫妻は年休をとって鹿児島市まで運んでくれた。かくて、わが住みなれた鹿児島に6ケ月ぶりに帰ってきた。



写真左:宝塚の次男基宣家

写真中:宮崎の長女大坪家

写真右:鹿児島の長男信一と次女愛

* 種子島で ……2007/03/14…
、1月27日(土)海を渡って種子島、西之表へ。46年間過ごしたなつかしの西之表市そして港、教会、幼稚園。

1月28日〜2月11日までのメモ
@、1月28日(日)西之表教会で講壇担当。久しぶりに主にある兄弟姉妹たちと互いの安否を問い、感謝と祈りの課題を分かち合う。西之表では2回の説教奉仕をする。

A、今回の種子島帰省の大きな目的は二つの幼稚園の50周年記念事業への協力である。理事長の要請により、記念誌発行の準備のため、膨大な資料を整理することからはじめた。保存に及ばないものは思い切って破棄する作業。昭和初期生まれの特性として、ものを捨てたがらない。ゆえに、倉庫はごった返す。でも、思い切って捨てなければ片付かないし、仕事が進まない。宝物を捨てる気持ちで、整理に明け暮れる。

B、近所付き合い。ともに子育て、育成会などで活躍した友人たちも、いまは老境にはいる。互いの安否を問いながら、今後の平安と健康を祈る。各自、好きなミニゴルフなどし、自分の健康は自分で進めている。自分のことは自分でする気概は大切だと思う。なんでもすべて、行政や制度に頼ってはならない。前市長のE氏、現市長、老人ホーム施設長のO氏、老健施設長のM氏を表敬訪問。

C、園児たちと遊ぶことも、楽しみと健康の秘訣。誕生会、節分、遠足などに参加する。園児は、その言葉、行動を通していろいろなことを教えてくれる。「幼児は大人の教師」とは日ごろの確信である。
D、花壇の手入れ。幼稚園の花壇は園児にとって最高の環境である。花の育ちのなかで幼児たちも育つ。


写真左:種子島ははやくも桜の満開でした

写真中:教会での説教

写真右:元気な幼稚園児たち:節分行事

* 鹿児島で ……2007/03/14…
鹿児島で
1、2007年1月22日(月)快晴
鹿児島市に到着。この間、約一週間滞在。久しぶりの鹿児島は透き通っており、西に傾く太陽に映えた桜島が迎えてくれた。帰ってみると、やはり故郷はいい。九江もいいが、鹿児島も。

2、1月22日〜27日のメモ

  @、わかくさ保育園で冬花の手入れ。特に菜の花を愛でるため、苗を移植する。すでに、つぼみを膨らませて開花も近い。南国鹿児島の冬の植物管理はとてもしやすい。2月末には見ごろになるだろう。
  A、園児が遊ぶコマをつくる。廃紙を利用し、コマつくり。1個作るのに、約20分。600個を目標に頑張る。これはもっぱら夜の仕事。

  B、1月25日(木)鹿児島教会で牧師会。牧師たちの情報交換、祈りの課題の分かち合い、霊的充電のときを持つ。

  C、わかくさ保育園の後任、S園長の古希の祝いに参加する。保育士たちの発案。ともに、S園長の健康と祝福を心から願い、かつ祈る。

  D、吉原定一さんを訪問。ここで、塩田さと出会う。かれは南日本新聞社の論説委員であるが、今期、退職し、以後は中国で過ごしたいと希望している方。


写真左:元気な園児たち

写真中:園児の描画作品

写真右:わかくさ保育園の発表会
* 九江へ ……2007/03/14…
  鹿児島空港へ午前11時に着く。時間待ちのあいだに、空港の足湯につかり、疲れを癒す。

 空港出発ロビーで、すぐ隣に座っておられた夫婦がわれわれに話しかける。

  「九江で日本語を教えています。」というとその方も実は同じ境遇。前園さんとおっしゃる方で江蘇省大学で教えておられるとのこと。鹿児島は指宿方面のご出身。安徽省で教えておられる加冶佐先生を知っておられたので、高校時代の同僚だったのかも知れない。

  そうこうしているうちに、なんと長沙大学の中原理恵さん、長沙技科大の東シオリさんと会うことなり、一同しばしの情報交換会となった。現地時間午後2時過ぎ、上海に着き、一同と別れて上海駅へ。

  上海駅では人が多く、なかなかタクシーがとまってくれない。近距離は乗車拒否をするのである。さいわいにも、上園さんを迎えに来てくれた学生が英語を解したので、彼女の助けを得て、タクシーに乗り込むことができた。

  上海長距離バスセンターに着くと、蘇州の呉越さんが友人とともに駅で待っていてくれて、彼女の世話で上海九江行きのバスの乗車券を用意してもらった。バス代の清算をし終え、やれやれ。安心したせいか、疲れがどっとでた。何せ持てるだけの手荷物を(4個で50キロ以上)運んでていたので、へとへと。まずは手荷物を預け、4名で夕食をとった。上海の食べ物は高いだけで美味しくない。文句を言いながら、おなかを満たし、午後6時30分の寝台バスに乗り込んだ。この間、呉越さんと友人は同伴し、バスが出発するまで残り、われわれを見送ってくれた。かくて、上海を出発し、明日早朝には九江へ着くこととなる。

  バスは予定通り高速を走り、4日午前5時30分には九江バスセンターに着いた。まだ暗く、外は雨だった。タクシーを拾い、学院キャンパスまで行くつもりでタクシーを物色していたら、夜行バスに同乗してきた中国人女性が「May I help you?」と声をかけてくれた。彼女は、てきぱきと運転手に交渉してくれた。運転手いわく、「早朝だから、夜間料金だ、18元。」と言い張る、彼女は「普通の昼間料金にしなさい」と交渉。まるでケンカみたいな大声の出し合い。中国人の会話ってこれが普通。慣れれば、あまり気にならい。運転手は18元を16元にするといった。それでも彼女頑張るので、ここから学院キャンパスまでは15元ぐらいだと経験上知っていたので、「可以。」といって、この声高な交渉を中断し、タクシーに乗った。多くの手荷物と2人の料金としては16元(日本円約220円)は安いものである。それより、早く宿舎に落ち着きたかったのが本音。

  かくて、無事、九江学院宿舎にたどり着き、やれやれ。少し睡眠をとって、日本からのインスタント味噌汁で腹ごしらえをすると、日曜礼拝に出かけた。約2ケ月ぶりの九江教会。懐かしい顔がわれわれを迎えてくれた。感謝の一日の始まりであった。


写真左:鹿児島空港国際線で合流した同じ境遇(中国で日本語を教える)の日本人たち(上園、中原、東(新任で長沙へ)の各氏


写真中:3年生とともに

写真右:いっそう発展拡大する九江学院キャンパス


* 後期授業の始まり ……2007/03/14…
生徒たちと

5日(月)この日から事業の開始。月曜午前に2年生の会話2時間。火曜日午後同2年生の2クラス会話4時間。これが今学期の正式授業時間。

  なんと、少ないこと。水曜日から次の日曜日までは授業なし。これで、中国の近隣を4泊5日ぐらいで、旅行することができる。ラッキー。

  学生たちの明るい顔に迎えられて元気をもらう。かれらのために、よい授業をしなければ。

写真
写真左:根っから明るい学生たち

写真中:春迎草

写真右:日本語コーナーにおける交流会
* 婦人節の贈りもの ……2007/03/14…
3月8日は三・八節

桃の花見
  婦人節に桃の花見の招待をうける。3月8日は国際婦人年。中国でも婦人節として祝う習慣がある。日本語生徒の呂栄さんが、婦人節桃花観覧会参加を家内名で申し込んでいたらしく、当選したのでぜひ参加してといってくれた。家内は一人では不安だから止めるというと、また交渉して特例を作ってくれた。すなわち夫の私も同伴できるということで、あさ7時に集合場所に出向いた。

  出欠の点呼のとき、「今日は日本からの夫婦も参加しています」と主催者が紹介すると、みんなの拍手が起こった。歓迎の意である。かくて、女性群のなかに一人男性が加わっての花見の旅。

  場所は九江から西北西に約60キロほどののどかな桃園。ちょうど見ごろで見渡す限り桃の花。昼食は田舎料理で女性群と一緒にいただく。途中、放送局のインタビューなどもあり、後日、「先生、花見にいったんですか。ラジオで聞きましたよ」と生徒たちにいわれた。

  午後は唐時代に建立されたという古寺を訪れる。結構参詣者が多かった。自分はキリスト教であるので、見学にとどめた。この寺は尼寺らしく、女僧が仕切っていた。仏像はすべて白磁のセラミックに着色したもので、出来立てのように光っている。日本の仏像は木彫か鋳物であるから、時代とともにその古さも自然と顕れるのであるが、そこがどこか違和感がある。

  いざ帰るとき、バスが故障し、ずいぶんと境内ので待たされた。九江へ帰ったのは、午後3時予定が6時ごろになった。この待ち時間中に、からだがぞくっとして気分がわるくなった。どうも先週からの疲労で風邪にかかってしまったらしい。授業に影響しなければよいが。

写真
桃花観覧団体記念写真と桃花園
唐代の古寺(尼寺)
* うれしい便り ……2007/03/14…
「合格しました」と弾んだ声

  3月10日前後、昨年12月に全国一斉に実施された日本語能力試験を受験した者からの合格の知らせを受ける。学生たちから弾んだ声で「先生、合格しました」という声を聞くことはとてもうれしく、わがことのようで、教師冥利に尽きる思い。特にうれしかったのが、昨年少しの点数不足で合格しなかった学生が、再度挑戦し、見事合格した知らせは特にうれしい。

 「先生のご指導のおかげです」と付け加えることも忘れない生徒たちは実に律儀なものである。

 「いいえ、あなたの努力の結果ですよ」とこちらも返してやる。日本の学校でこのような師弟関係は徐々に消えつつあるのではないだろうか。

一級試験に合格した呉越さん(卒業生)
紀珂さん(3年生)。林天史君(2年生)
* 九江二月・三月の花 ……2007/03/14…
この時期、2月、3月は九江はもっとも花が少ない季節。

でも花屋に行くと栽培物の切花、輸入物の鉢などは結構ある。

路地に咲く花としては「山茶花」「春迎草」などが主。畑には油菜の花が鮮やか。4月になれば、宝桐、桜などがいっせいに咲き出す。

東京は雪。とのニュースを見た。九江もしばらくは「三寒四温」の繰り返しで、徐々に本格的春を迎えることであろう。

写真:山茶花は真紅、白、薄桃まだらなどがある。
   写真(左:紅、中:白)

写真(右)春迎草は中国には多く道路わきに植えられている。3月はじめごろから4月にかけて、黄色いはなが咲き誇る。日本の山吹に似ている。
* 九江学院訪問者 ……2007/03/30…
W・信子さん。
彼女はアメリカ国籍の方。ハワイで永年教師を勤め、退職を機に、中国へ熟年留学を希望しておられる。このたび、3月19日から約一週間、下見を兼ねて九江学院を訪問された。天候もよく、いい印象を得られたようである。学院スタッフも暖かく迎えて宿舎の提供や空港までの送り迎えと、職員並みの待遇であった。

写真左:Weeks・信子さんを囲んで。(左から二人目)

写真中:学園の周りに咲く花。名前がわかりません。

写真右:エンドー豆の花
* 妻の誕生会 ……2007/03/30…
  3月27日は妻の誕生日。享年73歳。
結婚式も妻の誕生日に合わせて行ったので、覚えやすい。結婚49年。来年は金婚である。

  多くの学生たちが、「奥さんの誕生日でしょう」といって、花束やカードのプレゼント。また学生有志で、食事会を設定し、会食に招待される。

  特に、妻の誕生日を教えたわけではないのに、誰かが覚えていて、情報を流したのだろう。それにしても学生たちの優しさ、思いやりに、感動せずにはいられない。


写真左:会食に誘ってくれた学生たち

写真中:ソラマメの花(誕生会とは特に関係ありません)

写真右:木蓮(これも誕生会とは関係ありません)
* 木村さん一時帰国 ……2007/03/30…
  熟年留学生の木村さんが、九江学院の派遣交流員4名を引率して奈良大和高田市へ一時帰国。

  木村さんは約一ヶ月間、故郷の奈良で過ごし、4月末には再度九江学院へ帰ってこられる予定。


写真:左・中:木村さんを囲んで交流室・食事。

写真右 グリーンピースの花
* 九江を走る日本車 ……2007/03/30…
  九江では車が駐車しているとき、しょの車種をみると日本車が多い。もちろん、左ハンドル。これらは、ほとんど中国で生産したものだろう。

写真:日本車のマークがついた乗用車

 日産、ホンダ、トヨタ、三菱、マツダ、いすゞ(これはトラック類が多い。)スズキ(九江にはスズキの合弁会社がある。)
 要するに日本の全車種が中国を走り回っているといっても過言ではない。
* 宿舎の東西南北(2) ……2007/03/30…
宿舎の周りは花や植え込みの木でゆったりと落ち着いている。高級住宅地にいる心地。

写真のみ。

写真左:宿舎南側。廬山がかすんで見える。全山姿を現すのは珍しい。 写真中:昨年植えられたサクラと日本語科学生  写真右:宿舎北側は建物群でその屋上に土を盛り、花を植えている。
* 宿舎の東西南北(1) ……2007/03/31…
  九江学院の外国人教師宿舎(外教)は別名ホワイトハウスとか、白宮(バイコン)とか呼ばれる。この棟には、国際交流センター事務局と、11世帯が住める住宅がある。その東西南北をご紹介しよう。

  まず、東側は建物群で囲まれた緑地帯がある。

  西側は、落日の見える空間が広がり、最近、新しく植物を植え、散歩道がついた。

  北側は、建物群に囲まれ、屋上に土を盛って四季折々の花が咲く。

  南側は廬山を遠方に見る。

写真左:宿舎の東側は緑地帯で四季折々の花が咲く。

中:去年植えたサクラが咲いた。 

右:西側は散歩道のある丘陵地。健康増進に散歩がいい。
* 明日から4月 ……2007/03/31…
  明日のことを思う

  わがふるさと鹿児島の南日本ニュースに、3月30日摂氏26度余とあった。実は九江も同様で今日は半そでだった。
  
  今日で、3月も終わり、明日からは4月。日本は役所や学校が新年度を迎える。ピカピカのランドセルを背負って新一年生が校門をくぐる。
 
  役所や職場も新入職員や新入社員を向かえ、なんとなく落ち着かない。

  海の向こうにいると、日本という国が今後どうなるのだろうと、ふと思うことがある。周辺諸国の動きや発言も気になる。

  国とはなんだろう。壁があり、対立し、危機感をもち、自尊を高め、排他になることだろうか。

  一世紀前までの日本は、海という壁で守られ、外国からの脅威は、元寇の役、鎖国開放のときぐらいしかなかったのではないだろうか。

  今は、海は壁にならない。では、富と武力か。明治・大正・昭和初期の富国強兵の再指向?

  自分を含め、日本国民一人ひとりが、ある種の覚悟をしなければならないのでは。

  どんな覚悟か。難しい!!
  ほんとに難しい。@死んで相手を生かすか。A話し合いによる共存か。B殺して自分が生きるかの選択をしなければならない。

  私はまず、Aを最優先させる。これに解決がつかない場合は@を選ぶ。負けたようだが。さにあらず。「負けるが勝ち」という論法だ。負けてなお勝つ秘訣がある。「み国を来たらせ給え」

写真左:朝日に映える桜島(2007年2月写す) 何が来ようとどっしりと座る桜島のようでありたい。

写真中:自分に被さっている土を嫌がらず、衣とし、肥やしとしてきれいな花を咲かせる水仙。学びたいものです。

写真右:中国の落日は赤いのです。「ここはお国の何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友はこずえの石の下」という戦前の歌を思い出します。軍国主義の時代にこのような歌が歌われていたのは不思議ですね。反戦歌、厭戦歌とも思える歌詞だけど。