平成17年7月2日〜8月30日
虹の架け橋
池田公栄・九江学院日本語教師日記

2005年7月2日(土)天候晴

**餞別を断る**

9月から北京で日本語学習を始める日本語教師の殷秀珍先生に、大変お世話になったので、お礼の手紙と一緒に何がしかの餞別を包んだ。ところが、彼女、絶対に受け取れないといって返してきた。

「おじいさんやおばあさんからだと受けとるでしょう?だから、これおじいさんのお小遣いです。」というと、「私の両親は、たとえ、祖父母からのお金でももらってはいけないと躾けられました。これは私の信念です。」という。こんなやり取りのあと、結局彼女は受け取りを断った。

ちなみに、彼女は
5人兄弟姉妹の長女で、いつも弟や妹の子守を担当したそうである。そして、いまでも、弟、妹たちに学費の一部を仕送っているということであった。厳格な家庭教育、独立心旺盛な彼女に驚きとともに、これほどの若者が今日日本にいるかな?と思った。

 

2005年7月3日(日)天候晴れ

*早朝の礼拝**

今日は初めてカトリック教会を休んだ。先週神父さんには、「日本に帰ります。又きますからよろしく。」と挨拶しておいた。そこで、初めて二部礼拝システムの(三自)九江市基督教会に出席した。ベッキー嬢が、かって、「池田さん、早朝の礼拝はもっと多いよ。」と話していたが、なるほど教会へ着いたら、すでにいっぱいで、座るところがなかった。

しばらく立ったままでいると、ある婦人が「ここえぞうぞ」と席を譲ってくれた。今、建設中の新会堂が
2000人収容可能な礼拝施設であることがうなずけた。今日は、第一日曜日で聖餐日である。マタイ福音書26章からイエスの言葉が読まれ、イエスのからだと血の祭儀に与った。これから後2ケ月間は日本の教会で主キリストさまを礼拝することになる。 

中国で学生同士の衝突相次ぐ 山東省、江西省で  

 2日付香港紙、太陽報によると、中国山東省の山東理工大で6月27日、学生計500人が漢民族とウイグル民族に分かれて衝突、重傷者5人を含め少なくとも9人がけがをした。同25日には江西省の人民解放軍系の大学、九江学院で、学生約4000人が車を横転させるなど暴徒化した。

 報道によると、山東理工大の衝突は、バスケットボールの際のもめごとが発端。刃物などを持ったウイグル民族の学生約30人が、寮で漢民族の学生らに暴行を加えたため衝突が拡大。

武装警官が鎮圧し数人を拘束した。
九江学院の学生らは大学側が寮の電気代などをむやみに徴収しているとして暴徒化。大学側は徴収した金の一部を学生に返還したという。(共同) (07/02 17:24)

大規模ハッカー攻撃を計画 日本側狙い中国最大組織

 1日付中国系香港紙、文匯報は、中国最大のハッカー組織「中国紅客連盟」が今年7月と9月、日本側ウェブサイトへの大規模なハッカー攻撃を計画していると報じた。攻撃目標や詳細な時期は不明。 同紙によると、同組織の拠点のコンピューターに対しては、日本のハッカーが今年1月から攻撃を続けている。

中国から日本のサイトに攻撃した直後に日本側から「反撃」を受けたケースもあったという。 このため同組織はメンバーを情報収集や攻撃、防御などの担当グループに分け、「戦闘力」や「防御力」を高める訓練を実施中。攻撃担当は1隊10−100人の「戦隊」120隊で編成されている。  同組織は昨年末にいったん解散したが今年復活し、4月に8000人だった登録メンバーは現在、3万5000人余りという。(共同)
(07/01 14:52)

**はじめての家庭集会**

○○牧師の案内で家庭集会に出席。家庭集会のキリスト者は全国で8000万人とか。カトリック愛国教会、三自愛キリスト教会をあわせると1億人となり、およそ、8%強がキリスト者ということになるが。その実態は不明。中共政府が認める教会はカトリック愛国教会、三自愛キリスト教会で、以下の4点を政府に対して守ることを約束した。

1、毛沢東、ケ小平の路線に忠実であること。2、中国共産党に忠実であること。3、民主的集団であること。4、社会的集団であること。3と4はごく常識的な内容である。
12は現政権に都合よい押し付けであるが、これは歴史が解決するであろう。小生は○○牧師の依頼を受け聖餐の司式をおこなった。これは小生の中国における最初の礼典参加であった。

 

2005年7月4日(月)天候晴れ

広東省からの曾春燕、江蘇省からの呉越から安着の電話とメール。彼女たちは久しぶりに故郷の両親のもとで暮らす。夏休み中、のんびりとした生活もまた彼女たちの益になることだろう。昼は殷先生と昼食。彼女も北京へ進学し、日本語の力量をより高めることだろう。彼女の健康と健闘を祈りたい。

 

2005年7月5日(火)上海宿泊天候晴れ

午前6時15分九江を発ち、帰国の途につく。南省空港まで外事部の帥先生が車で送って下さった。国際交流課で外国教師の世話をするのが仕事とはいえ、彼はとても親切に対応してくれて有難い。この日の日程は南昌〜上海。定時に南昌を飛び立ち、午前10時過ぎには上海虹橋空港につく。当日は上海~鹿児島直行便のダイヤ待ちで上海浦東空港に隣接した「錦江の星」ホテルに投宿。ホテル周辺埋立地で植林などはよくなされているが特に見るべきところも無く,部屋でのんびりと過ごす。

 

2005年7月6日(水)鹿児島天候

搭乗手続き、955分離陸、鹿児島空港着1230分。一路種子島へ。久しぶりの日本の海。特に種子島はオーシャンブルーに包まれ、透き通った空の青と、海の濃紺が対照的。九江長江のにごり水、上海外港の泥水、いつも煤煙で曇っている空を見ていたものにとっては、鹿児島は、そして特に種子島は空がまぶしい。海原はサファイヤの絨毯を敷き詰めたような美しさに思わずため息。「故郷のよさは外国へ行ってはじめてわかる。」といわれるが、まことに同感である。午後4時30分、西之表市鴨女町の自宅につく。

 

2005年7月7日(木)種子島(曇り)

**河野昌行町内会長訪問**

鴨女町は昭和33年に発足した西之表市の新興住宅地である。400所帯ほどの公民会で、かっては、若い人たちで構成され、児童も多く、活気があったが、近年老齢化の波は防げず、若者は進学、就職で島を出たきり帰ってこない。残された老人たちがひっそり暮らす町に変わってしまった。このような町の町内会長さんが河野昌行さん。ごみ出しや環境衛生、敬老行事などの業務をこなし、市政連絡員を兼務しておられる。友人でもある河野さんを訪問し、日ごろのご苦労を謝し、また九江の生活にしばし花を咲かせた。

 

2005年7月8日(金)種子島天候晴れ

**長野市長表敬訪問**

今年211日実施された西之表市長選に立候補し、市民の支持を得て新市長になられた長野力さん。わがシオン学園の役員をお願いしたりした方で、個人的にもお世話になった方。帰国を機に同氏を表敬訪問した。気持ちよく応対していただき、西之表市の緊迫した財政難をどう解決するか持論を聞かせていただいた。一口でいうと、国と同じく、小さな政府に向かって改革することだそうで、日本国の行財政改革と同じ路線である。「頑張ってください」とエールを贈る。

 

2005年7月9日(土)鹿児島市天候曇り

**鹿児島教会にて牧師会**

 第56回キリストの教会全国大会開催準備を昨年8月から立ちあげ、鹿児島県の教会が共同でホスト役をつとめることとなった。開会2週間後を控えて、最後の詰めの牧師会。事務局長の逆瀬川牧師には一年間ご苦労様でした。彼の進捗状況を聞きながら、問題なく大会を迎える準備が完了したことを確認。あとは良好な天候を祈るのみである。一つの大会を興すということは企画、会場、テーマ設定、講師、交通案内等多岐に渡って準備しなければならないのでホントニご苦労さまでしたといいたい。 

 

2005年7月10日(日)鹿児島市 天候晴れ

**玉里カトリック教会礼拝**

鹿児島市早牟田にある玉里カトリック教会出席。本来は自分の教派の教会に出席するところだが、理由があってカトリック教会に出た。理由は、第一、種子島カトリック教会の神父を勤められたサンタマリア神父さまが転勤で玉里にきておられること。

第二に、種子島のキリスト幼稚園に通園した園児で、数名の方がこの教会の信徒となっておられるので、その方に会い、安否を問うためであった。あいにく、神父様はビザの関係で、何年か毎の定時帰国をなさっておられた。お会いできなくて残念であったが、二週間以内に再びおいでになられるということであった。

教会は代理の神父様が司式を行い、ミサがまもられた。聖書はマタイ福音書13章1−9からの説教。神に耕された人の心に蒔かれた福音の種は60倍、100倍の実りがあると思った。そして、神は人生の諸事をとおして、人の心を、実を結ぶよい畑のように、耕してくださるものだと感謝する。

 

2005年7月11日(月)鹿児島市 天候晴れ

**鹿児島市日中友好協会理事会(オブザーヴァー)出席**

事務局長の大石ケイジ様から表記の理事会を開くので、出席ください。との招待を受け、喜んで参加した。場所は鹿児島市民交流センター四階であった。海江田会長はじめ、理事の皆さんとは初対面であったが、旧知の仲の再会であるかの印象。日中友好を願った純粋な団体だけに、この会の方々の日ごろのご活動には頭が下がる思い。

議題は、「黄興碑」建立に関する件であり、この日、建立の方向でスタートすることが承認された。黄興といえば、湖南省出身の中国辛亥革命の立役者。風貌が西郷隆盛によく似ていることから、中国の西郷南州翁にたとえられる人である。彼は、明治維新成功に触発されて、日本(東京)に留学し、孫文らを中心に、中国革命への情熱を燃やし、幾多の困難を乗り越えて、辛亥革命を成功させた人物である。

彼の風貌といい、気質といい、西郷さんに似ているといわれる。彼の、記念碑は、尊敬する西郷南州を慕い、肥後の宮崎滔天とともに、南州神社を訪問し墓参したことを記念して建てられるものである。是非成功させたい。

 

2005年7月14日(木)鹿児島市 天候晴れ

**選択理論定例研究会(加治屋町教会)**

加治屋町教会キリスト教センターで定例会が開催された。あらかじめ、幹事役の松田瑞穂先生から出席の案内を受けていたので、研究者の皆さんとお会いできることも嬉しくて、喜んで参加した。いつも、参加人数は78名だが、皆さん研究熱心でこの選択理論カウンセリング手法を用いて、「鹿児島いのちの電話」の応対事業のボランテイアをしていらっしゃるグループ。選択理論カウセリングシステムはクライアント(相談者)の意見や考えをよく聴き、クライアント自身が自らの選択で意思決定を行い、行動することを最終目的とするカウセリング手法である。関係諸兄姉の「いのちの電話」への関わりに敬意を表するとともに、その活動が祝されますように祈る。

 

2005年7月12日(火)鹿児島市 天候晴れ

**吉原さんと**

六ヶ月ぶりに吉原定一さんを訪問。この方には、九江行きについて、一方ならぬお世話になった。吉原さんとの出会いがなければ、小生の中国行きは不成功に終わっただろう。神がこのような人をめぐり合わせてくださったことを感謝する。

 

2005年7月13日(水)鹿児島市 天候晴れ

**芋畑草取り**

わかくさ保育園の学習園を鹿児島市犬迫農園に借りて、サツマイモを植えつけている。迫田園長の許可を受け、長男とともに草取りに汗を流した。5月末に定植された苗はよく活着し、ツルがのびて勢いがよかった。わかくさの園児たちは10月末ともなれば、この場所で芋ほりを体験し、焼き芋をし、自然の恵みに浸ることになる。長男と無心になって雑草を引き、汗を流し、休憩時の缶ジュースは格別な味であった。

 

2005年7月15日(金)鹿児島市 天候晴れ

**環境整備**

わかくさ保育園の菊鉢の管理。腐葉土の切り返しで汗をかく。

 

2005年7月16日(土)西之表市 天候晴れ

日曜礼拝で、教会の講壇担当のため種子島へ。白砂青松の環境につつまれた我が家の住まい。3階の窓から心地よい風が吹き込み、自然の恵みに感謝して浸る。

 

2005年7月17日(日)西之表市 天候晴れ

**西之表教会説教**

半年振りの講壇。使徒言行録2章から初代教会の状況について説教をする。その概要は次の通り。

1、使徒たちによって、不思議な業が行われた。記録によれば、不思議な業の内容は病人が癒され、歩行不自由な青年が歩けるようになったなど。神は時にデモンストレーションとして奇跡とよばれることを行われる。

2、信者は自発的に所有物を共有した(ある学者は、初期キリスト教社会を原始共産社会と呼んだ)

3、よく会堂に集まり、キリストの教えの共有(今日では聖書の福音書を読むこと)がなされ、祈りがなされ(主の祈りを中心に)、聖なる晩餐(聖体拝領といい、パンとぶどう酒をキリストの体と血として信者たちが受ける礼典)に与った。

4、民衆全体から支持された。

民衆の宗教となり、民衆が生かされ、平安になる宗教こそが真の宗教であろう。

 

2005年7月18日(月)西之表 天候晴れ

中国の近・現代史研究

九江にいて、中国人の生活や考えを見聞し、日中関係、反日デモ等にあって、中国の近現代史に興味がわき、改めて蔵書から日本史、世界史の中国関係を読み漁った。

 

概要をまとめると次のようになる。

1、日本サイドからみた中国近現代史

開国、明治維新を成し遂げた日本は、欧米との通商、朝鮮・中国・東南アジア・ロシアとの極東圏と通商を行うようになった。当時、インド・ベトナム・タイ・フリッピンなどはすでに西欧列強によって植民地化されていた。これを範例とした日本は朝鮮半島、中国、ボルネオ・ジャワ等、南アジアに権益を拡大し、多くの日本人を入植させ、疎開地を作った。

同時に、疎開地邦人保護の立場(義和団事件)から、軍隊も少数ながら駐留させた。最初は小規模な入植の試みも、植民地化のうまみを味わってしまった日本は、国内の経済不況(昭和恐慌)による失業者救済のため、口実を設けて台湾、朝鮮半島を日本に併合した。

それから以後、日本の極東大陸への権益と進出はエスカレートするばかり、ついに、柳条湖事件、盧溝橋事件を発端に中国との間に17年戦争が始まり、北部には満州国という傀儡政権をつくり、上海事件を始め、中国の主要都市を日本軍が占領した。

中国のみならず、大東亜共栄圏の名のもとに、太平洋戦争と同時にイギリス・フランス・オランダ・アメリカを一時東南アジアから追い出した。かくして、日中戦争は欧米諸国をも戦争に巻き込み、1945年8月15日全面無条件降伏で幕を閉じた。西欧列強の真似をしたが、結局失敗だったことを歴史に刻んだ。

 

2005年7月19日(水)西之表 天候晴れ

**鹿児島伝道協力会**

表記の定例集会が鹿児島市加治屋町教会のセンターで開催され、出席した。会長:吉井秀夫牧師(鹿屋)、事務局長:麦野賦牧師(伊集院)の任意団体で、教会の情報交換、いのちの電話事業応援、国際飢餓対策機構(日本事務所)への応援、講演会、市民クリスマス、伝道協力などの活動を行っている。

当日の主な議題は、10月末に開催される第6回食料デー鹿児島大会の実行計画の協議であった。「5円で飢餓国の乳児の一日分のミルクがまかなえる。」日本の「捨てる食料を減らし、その分、飢餓国に送りましょう」といった内容のキャンペーンを実施することであった。開催場所:サンエール鹿児島。

 参加者およそ20名。久々に教会の同僚と歓談でき、感謝すべき一日であった。

 

2005年7月20日(水)−21日(木)西之表 天候晴れ

中国の近・現代史研究(そのA)

2、中国サイドから見た近現代史

清朝からの解放運動。中国の近現代史はここから始まる。満州族清朝に支配された漢民族は日本の明治維新に触発されて、青年たちによる開放運動が展開される。孫文・宋教仁・黄興などは日本に留学し、明治維新の志士たちを研究し、改革のノウハウを中国に適応しようと試みた。幾度もの蜂起失敗を重ねながら、ついに開放成功。これが辛亥革命である。

 清朝末期の中国状況

清朝は世界の列強からは「眠れる獅子」と恐れられ、その威光はなはだ大であった。早くから、通商のため中国に進出した西欧・ロシアはやがて「眠れる獅子恐れずに足らずと」アヘン戦争を起こし、中国にさまざまな不平等条約を押し付けた。

清朝は内に革命の気運、外に外圧を受けながらの、王朝末期現象を呈していた。

 革命家たちの国づくり

辛亥革命を成功させた志士たちは、自らの国をどう作りあげるか模索しながら、一方では、日本や欧米の中国進出をどう解決するかが1927年以来の課題となった。辛亥革命後の大きな動きは、ロシア共産革命に触発された、毛沢東を中心とする共産党集団、共和制を主張する蒋介石を中心とする国民党集団が大きく覇権を争う。このような状況下で盧溝橋事件をきっかけに日支戦争へと発展した。

日中戦争収束のため、両者は一時覇権争いをやめ、日本軍駆逐に結束した。また、繊維経済摩擦で日本に不快感をもていたアメリカは中国に肩入れし、軍事援助を実行し、日本を困らせた。結果は、日本の欧米への宣戦布告により太平洋戦争へと発展し、1954年日本の無条件降伏という結末となった。日中戦争が終結した後、毛沢東率いる共産軍と蒋介石率いる国民党は再び覇権争いを展開したが、共産党軍が有利に展開し、国民党軍を台湾に駆逐し今日にいたっている。

1949年10月1日、毛沢東は新中国を中華人民共和国と命名する。以後、指導者たちの覇権争いもあって、躍進計画・文化大革命等を経、大きく躓く。幸い、毛沢東の死去により、中国人民意にとって一連のマイナス施策はケ小平らによって修正された。ケ政権は自由経済システムを導入し、通商による国益をはかる方向へ舵をきる。

しかし、天安門事件でみせたように、人民の思想・信条の自由は認めず、力で抑えた。当分の間、自由経済システムと一党独裁システムは平行して進められるであろう。だが、人口13億人、56民族の他民族多人口の中国は、貧富の差を生み出し、国内問題へと発展しつつある。

 現政府は、国民には愛国教育を行い、例えば「南京大虐殺」等を具体的教材として教えると同時に、この悪を駆逐したのは中国共産党であるとしている。

歴史認識はどこの国も、自国の国に都合よく解釈するものである。

 

3、日中関係のこと

1978年に日中友好条約が締結されたが、中国と日本は冷政温経の関係にある。中国にはすでに多くの日本企業がはいり、活動を始めている。これは両国にとって有益であるからだ。しかし、バランスを崩したときが問題である。どちらか一方の国に不利益なことが起これば、争いごとになる。最後は国間の決断による解決となる。

この場合、武力に訴えるか、話し合いによるか、第三者の調停によるかの解決策があろう。国際司法裁判所なるものを加盟国同意でつくり、少なくとも加盟国間ではこの裁判所の判決を受け入れるという原則を作ったらどうだろう。武力による解決は悪魔が微笑むだけである。断じて行ってはならない。基本的には日中は過去も今後も、過去の歴史からも、国益の見地から、互いに必要とする国である。

 

2005年7月22日(金)鹿児島市 天候晴れ

**わかくさ保育園の夏まつり**

恒例の夏祭り。今年で第32回目を迎える。開園当初から続いている祭りである。小生も前園長として招待を受け、出席した。午後4時から、年長組みの「みこし担ぎ」。午後6時からは、保護者を始め、卒園生、近隣の方々を案内しての夜祭。夜店を開いて、かき氷、串焼き、缶ジュース、くじ引きなどの出し物、園児の園芸などもあって、大人も子どもも楽しんだ。理事の内村さんや監事の正本さんも参加してくださって感謝。

 

2005年7月23日(土)鹿児島市 天候晴れ

**明和地区夏祭りに参加**

明和地区恒例の夏祭り。主催は明和地区の商工業者で組織する明和商工振興会(会長:千葉さん)。地区子ども育成会や、商工業者、各種サークルの方々が参加。夜店を出し、園芸の出し物もある。わかくさ保育園の子供たちも歌とこども太鼓を披露。大正琴グループのなかに旧知の吉嶺涼子さんを見かけた。大正琴演奏を趣味とする同志で組織され、地域の老人福祉施設や地域の行事に出演していられる。

保育園にも演奏をお願いしたことがある。海外の北京や、チェコへも演奏旅行されるほどの腕前。趣味を生かし、奉仕活動ができる退職後はすばらしい。吉嶺さんのことだが、彼女は30年も昔、ご主人が種子島の中学校へ赴任されたときの知り合いで、キリスト幼稚園の教諭を1年あまりお願いした婦人である。

 

2005年7月24日(日)鹿児島市 天候晴れ

全国大会宮崎会場プログラム作成

礼拝後、宮崎大会プログラムの製本に協力した。ページごとに冊子を作り、表紙をつけて大会誌に仕上げる。多人数で取り掛かり、約一時間で終了した。あとは北海道から沖縄までの参加者をお迎えするばかりになった。願わくは天候が良好でありますように。事務局長の逆瀬川牧師は細かい作業の数々をこなすのに大変だったと思う。ご苦労様を言いたい。

 

2005年7月25日(月)鹿児島市 天候晴れ

**わかくさ保育園ボランテイア受け入れ準備**

わかくさ保育園では今夏もボランテイアのし少年を57名受け入れることになった。すでに迫田節子園長が受け入れの手続きをすませておられ、あとは、具体的な受け入れ態勢を園長と相談した。@園児への関わり A園児や高齢者が喜ぶ手具作り B環境教育の一環としての廃油製作体験などを主な柱とすることにした。

 

2005年7月26日(火)西之表市 天候晴れ

**八板ヨリ子姉逝去に伴う一連の祭儀**

ご主人の康成氏と自宅の清掃をしているとき、トイレで倒れ、そのまま帰らぬ人になられたヨリ子姉急逝の報がはいった。逆瀬川牧師はすでに宮崎市へ行っており、彼の大会事務局長という重役から外れることも出来ないので、急遽小生が葬儀に当たることとなり、急ぎ種子島へわたった。遺体はすでに中種子町野間の自宅に安置されており、家族や一族の方も揃っておられた。

通夜の祭儀を執り行い、西之表からは徳永さん、山下さんなど主だった役員も出席してくれた。八板ヨリ子姉は享年85歳。中種子町に生をうけ、教育者として島の小学校・中学校・高等学校教諭として奉職されたのち、退職後は趣味の絵画、和歌、琴、パソコンなどに取り組んでおられたクリスチャン。主が平安のうちに迎えてくださるように。

 

2005年7月27日(水)西之表市 天候晴れ

**八板ヨリ子姉逝去に伴う一連の祭儀と宮崎市へ**

午後2時、西之表教会で八板ヨリ子姉の告別式をとり行った。姉を偲んで参列した人が会堂が一杯になった。姉の信仰をかたり、神に望をおいた一生であったことを告別の辞とした。「主よみもとに近づかん」の賛美歌をうたいながら、献花を一同で行い、最後のお別れとした。告別式後、出棺して火葬場へ。点火の祭儀、集骨の祭儀を終えたのは午後5時であった。喪主の八板康成に別れを告げ、親族の方の車で港まで送っていただき、洋上の人となった。船で仮眠し、鹿児島上陸後、日豊本線の急行列車に乗車、午後10時ごろ宮崎シーガイヤコンベンション会場に到着した。多忙な一日に振り回されたが、与えられた役務をこなし、心地よい一日であった。

 

2005年7月28日(木)宮崎市シーガイア 天候晴れ

**定年後の信仰生活**フリートーキング形式

司会者 元西之表基督教会牧師 池田公栄

出席者  26名

分科会として作成した報告書をそのまま転記する。                        

聖句:「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、・・・神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に、幼子のことを話した。」ルカ福音書2:37、38

 

聖歌 1番を賛美の後、祈りをなし、池田公栄兄の司会により、参加者が自由に発言したり提言したりのフリートーキングとなった。トーキングに先立ち、表題について共通の理解をはかるため、「定年後」の意味と「信仰生活」の意味を以下のように提言した。

 

提言:定年後は

@     名実共に定年を迎え、自己決定により自由に生活できる境遇の人

A     自由な生活は出来ないまでも、一日平均4時間ぐらいは自由に出来る境遇の人

B     時間的束縛はあるが、割合に自由時間を生み出せる環境の人

C     年金生活にはいった人で自活が可能であり、自由な時間を生み出せる人

 

信仰生活は

@     聖書を学ぶ時間が日常的に作り出せる人

A     祈る時間が日常的に作り出せる人

B     教会の集会に出席できる時間が日常的に作り出せるひと

C     特別集会に積極的に参加できる人

 

自発的であり、楽しいものであること

定年後と限らず、信仰生活は何よりも自発的でなければならない。強いられたものではいけない。そして、その選択は楽しいものであることがベストであろう。

 

アンナには夜も昼も神殿を中心に断食したり、祈ったりして神に仕えた。彼女は高齢なるが故に、断食や祈りの時間を確保することが可能であったという見方も出来る。若者は体力はあるが、仕事、子育てと忙しい。そのため断食や祈りの為の時間がつい目先のことの為に流用さえ易い。その点、高齢者には若者よりも神と交わる時間が作りやすい。また、人生経験も豊かである。だから、人の話や、相談に耳を傾ける余裕もある、恵まれた者たちである。

 

 司会者の方から以上の提言をなした後、フロアから、以下のような発言がなされた。

1、引退牧師のA兄の例

かれは、牧師であった。70歳になったとき、教会を副牧師に全面的にゆだね、宗教法人代表役員も新牧師に委譲し、かねてから祈り求めていた中国へわたり、中国の大学で日本語を教える仕事を始めた。彼の妻は長年の幼稚園教諭の経験を活かし、中国の幼稚園でボランテイアを申し出、受け入れられて週1回の割合で協力した。

夫婦は以上のことを、誰からか薦められるわけでもなく、祈った後、道が開いたので、中国行きを実行した。主は共産党政権の厳しい監督下のなかで、教会生活を行うことに何の支障も無いように導いてくださった。学校内にはヘブライ文化図書、キリスト教文化図書として聖書が図書館にも配備されており、学生が聖書を読み、質問をする分には何の制約も無く対応でき、御言葉を取り次ぐ環境が与えられた。

日曜日の主日礼拝も毎週二つの教会へ出席している。学生達は「老師は日曜日には何をなさいますか」と尋ねるので「教会へ行っているよ」と答えると、「わたしも行っていいですか」「いいですよ」という具合で学生の出席者も与えられ感謝であった。このようにして、洗礼をうけた学生が2人生まれた事はおおきな励みと感謝であった。クリスマス礼拝にはつぎのようなことが起きた。


「会衆を保護」との触れ込みで警察署員が会堂内に入り込み、実は礼拝を監視しているわけであるが、この警官は否応なしにキリスト者の礼拝行為を見聞することになり、クリスマスのメッセージが警官の心に届けられるわけである。ローマ皇帝の命により、キリスト者の行動を見張ったローマ兵士達もこのようにして、福音を聞き、ある者は改宗したのであろうと神の智慧に驚き、納得した。

 

2、B兄の発言

私は関西でキリストの教会の一信徒として、会堂の維持と牧師の働きを支援することに生き甲斐を感じている。例えば教会堂建築のとき、応分の財政負担を喜んでさせてもらった。主は一人ひとりに霊的賜物や、財政的賜物を与えてくださるから、その賜物を活かすという意味で、与えられたものを主の為にささげる事はすばらしいと思う。今後とも微力を尽くしたい。主に捧げるとは主の為に金銭・時間・能力を教会の働きの為に使うことである。

 

3、C兄の発言

 私はOBSで学び卒業したが、牧師にはならず、企業人となって定年を迎えた。現在、岡山県の田舎で宣教師の働きを支援している。「神学校を卒業した者は必ず牧師伝道者にならねばならないか」というテーマは私の問題でもあった。今は亡きマーチン・B・クラーク院長にこのことを相談したことがある。そのとき、師は「キリスト者として教会の働きを助ける仕事も大事です。」と教えてくださった。このような訳で私は企業人を選択し、アメリカ始め外国で働く機会が多かった。このとき、各地の教会の活動も見聞し、キリスト者が教会の宣教の働きに祈りと献金によって貢献することができる事を学んだ。定年退職した今こそ、自分が生かされているその場所でキリスト者としての活躍の場があると思う。

 

4、D兄の発言

 現在沖縄で伝道牧会を継続している。60年前、日本軍の一員として、戦いに参加した。終戦により、今までの価値観が180度変わり、自らの新たな生き方を主キリストのうちに見出し、米軍占領下にあった九州奄美大島を小さな船で不法脱出した。当時奄美諸島は米軍占領下にあり、パスポートなしに島を出ることは違法行為であった。とにかく島を出たわたしは熊本市で肺結核を患い、療養生活を余儀なくされた。主はここで私を捉えてくださり、伝道者の道を歩むこととなった。アメリカの神学校に学び、沖縄の教会に導かれ今日に及んでいる。私にとって「定年」という言葉はない。

 

5、E兄の発言

 鹿児島市在住者。わたしは定年後の時間を「自分がしたいと思う事」に使うようにしている。教会で英語を教えてくれるというので、そこに通い始めたことが聖書を学ぶきっかけとなった。信仰は自発的なものだ。わたしは、自分の選択で信仰を選んだ。いま、思う事は隣人へのかかわり方を考えている。「無視されるより、馬鹿にされたほうが良い」(島田ケンサク)と言うが、これからは他人とのかかわり方を求めてまいりたい。

6、F兄の発言

 鹿児島市在住の現役企業人。今の教会に魅力をあまり感じない。キリストの教会はもともと魅力的なものではなかったのか。

 

7、G兄の発言

 福音書によれば、多くの人がイエス・キリスト様の行かれるところ、止まるところにはせ参じたことが記録されている。キリスト様は特に宣伝手段などを通して人を集める呼びかけはなさらなかったが、人の方からキリストのもとにはせ参じた。キリスト様ご自身に人々は魅力を感じたのだ。キリスト様から癒しをただき、慰めをいただき、力をいただいた。教会はキリストのからだであるので、かしらである、キリスト様が前面にあって、魅力あるものに変えられるよう、その足跡を踏襲したいものである。

 

結び

定年後のキリスト者こそ、もっとも自由に、色々な場所で、色々なことを通して教会と隣人のために奉仕する事ができる特権をいただいている。神は定年後のキリスト者にこそ感謝と喜びの生活(ロマ14:17)を与えておられる。余生は神とのかかわりの中では与生・預生である。

 

以上、フリー・トーキングを終わり、沖縄の翁長良明師の祈りで閉会した。

 

付記「与生・預生」の出典について

 

 与生について、紀南基督教会牧師上山耕司師より、次のようなファックスを頂いたので転載します。

 

『これは、月刊誌「百万人の福音」の6月号に、《特集》六十歳からの積極的人生設計、というテーマが載っていました。それには、定年後の人生は「余生」といわれるが、それは決して「余りの人生」ではない。余ものではなく、より豊かな人生が待ち受けている、与生というものです。』

 

以下引用部分

 多くの人は定年後、悠々自適の生活を夢見る。しかし、いざ週休2日制になると、共通して話題になるのが、仕事人間がもう仕事が出来なくなった時に体験する、喪失感ということだ。ある男性は「とにかく、自由になったら、女房と海外旅行して、家では好きなクラシック音楽をゆったりとした気分で聴くんだと考えていた。何せ、仕事、仕事で、せめて定年後は、自分自身を休めたかった・・・」

ところが、その夢のような状況は、3ケ月を過ぎた頃から崩れていった。心の中の埋めがたい空虚感に、人と話すのもイヤになっていきました。

 

ある人がそのような喪失感から立ち直ったのは、神学校で聖書を学ぶことでした。それまで仕事のみの猛烈社員から、還暦後は神と人とに仕える道を選び、信徒伝道者になったのです。彼は「これからの人生は余生ではなく、神から贈られた人生、与生として仕えていきたい」と願っています。

 

伝道者になることは素晴しいことですが、伝道者になることだけが「仕える」ことでないことは勿論です。夫や妻、両親、兄弟の世話であるかもしれません。子どもに仕えることかもしれません。あるいは地域社会に貢献することかもしれません。とにかく、支配し、権力を振るうのではなく、「仕える」ことを心がけましょう。

 

「預生」という用語は内村鑑三全集で読んだ記憶がある(文責者)

 

文責者註

「与生」も「預生」も国語辞書にはないが、信仰的意図をもって説明をつけて用いる分には問題はないであろう。

      文責者 中国江西省九江市在住  池田公栄

 

 

2005年7月29日(金)宮崎市 天候晴れ

**閉会礼拝**

神奈川港キリスト教会牧師飯島正久師(講演の概要)

今回のテーマは「神と人に喜ばれる奉仕」である。奉仕は「何々してあげる」意識では限界がある。謙遜になって、神が各人に力と賜物をあたえてくださっている「分に応じた」奉仕である。誇らず、高ぶらず、聖霊の導きを祈りながら、精進されたい。

 

**婿たちの実家へご挨拶**

大会を終わり、三女の婿の実家と長女の婿の実家が宮崎市内であるので、ご挨拶に参上。三女の嫁ぎ先、圖師家はご母堂が健在、長女の嫁ぎ先、大坪家はご両親とも健在。婿の大坪篤史君は今宮崎大会に深く係わり、シーガイヤ会場宿泊の交渉、教会学校(子どもプログラム)の自然散策研修計画と実行を担当してくれて、大会を成功のうちに終わらせる原動力となってくれた。また大坪篤史君は家族ともども日本キリスト教団宮崎教会の会員であるため、教会の牧師ほか会員の皆さんも部分参加していただき、有意義であった。

 

**基宣の車で鹿児島市へ**

圖師、大坪家を訪問の後、午後5時宮崎市をスタートし、高速を一路鹿児島市へ。まだ明るい午後7時に鹿児島市内明和のわかくさ保育園に着いた。今回大会に出席できなかった長男信一に会い、写真等撮影のあと、基宣家族5名は鹿児島教会に宿泊させていただく。

 

2005年7月30日(土)西之表市 天気曇雨

**基宣家族と種子島へ** 瞳の種子島行きは初体験。

朝8時40分、高速船ジェトフォイル・ロケットで西之表へ。10時前には、西之表港に着く。孫の瞳にとっては始めての西之表。かねて、上の孫二人はすでに何回か来たことのある故郷であるが、末子の瞳だけがまだ。「種子島へ連れて行って!」といつも要求していたそうなので瞳が一番喜んでいる様子。早速明朗幼稚園の遊具で遊ばせてもらい、大満足の様子。孫が大勢集まるというので、妻はいままでクーラー無しの大部屋に、大枚をはたき、クーラーを設置していた。孫かわいさのおばあちゃん振り。午後は早速透明度一番の浦田海水浴場へいったが、台風8号接近と雨のため海は濁って波も高かったそうで、少し残念。夕食は圖師和俊家、池田基宣家、池田公榮(栄子含む)3家族の会食と相成り楽しい団欒のひと時だった。

 

2005年7月31日(日)西之表市 天候曇雨

主日礼拝(池田基宣説教)

久しぶりの母教会での講壇。アブラハムの信仰について学ぶ。イスラエル人、アラブ人の先祖であるアブラハムは、高齢となってからの世継誕生の約束を信じて疑わず、ついに、アブラハムおよそ100歳、妻サラ90歳となってのイサク誕生の物語。彼は「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた。」ローマ書4章17節のである。

午後、基宣一家は島巡り、嫁の博美さんは最終便で大阪へ飛ぶことになっていたが、あいにくの豪雨で欠航と相成り、翌日鹿児島空港経由で帰ることとなった。

 小生は明日から始まるわかくさ保育園でのボランテイアに備えて、最終トッピー便で鹿児島へ上る。

 

2005年8月1日()―6日(土)鹿児島市 天候晴

**わかくさ保育園ボランテイア対応**

わかくさ保育園で受け入れた鹿児島市内の小中高校生47名の児童生徒の対応を迫田園長より依頼され、昨年までの園長経験のノウハウを生かし、毎日7名―多いときは最高14名の受け入れをした。本事業を企画した鹿児島市民交流センターの導入指導よろしきを得て、参加した生徒たちは皆まじめで、こどもが好き、大変好ましい学生たちだった。活動時間:午前9時から午後5時まで。学校別に見ると明和小中・武岡小中、武岡台高校、山下小、池田中高、谷山中、和田中、鹿児島国際大の11校に及ぶ。

 内容としては、保育活動に参加したり、清掃をしたり、園児と遊んだりであるが、手具つくりも体験させたくて、動く鳥、コマ、紙鉄砲、飛行機(数種)などを廃材を使ってつくる。また、環境教育の一環として、廃油石鹸をつくる。作り方は、インターネット上に数種でているものを参考にした。

**広島原爆**

アメリカは日本本土地上戦による敵味方の大量戦死者を出さないために、早期の終戦を狙って原爆を投下したという。しかし、落とされた方は納得いかない。大量の民間人を殺すことを承認したことである。

 

2005年8月7日(日)鹿児島市 天候晴れ

主日礼拝(鹿児島・串木野)

鹿児島教会午前10時30分、串木野教会午後2時30分からの礼拝を担当する。説教礼典と聖餐礼典ならびに賛美祈祷を行うことが、牧師の主たる任務である。今日の聖句は使徒言行録2章43節から47節。本章は紀元1世紀の初代教会の様子を医者ルカが日記風にしたためたもので、今日では当時の教会を知る上で貴重な文書となっている。今日聖書学者たちは本書を歴史書と位置づけている。本文記載「使徒たちによって多くのしるしと不思議な業が行われた。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有した。・・・・毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンをさ裂き、・・・神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」

 誕生間もない教会が既成宗教(ユダヤではユダヤ教、アジアではミトラ教や、アルテミス信仰集団、ギリシャでは無神論的人本哲学、イタリヤローマーでは皇帝崇拝やミトラ教)の迫害を受けつつも、大衆の受け入れるところとなって、急激に伝播する。それは、支配に対して愛、刑罰に対して許し、死に対しては復活、将来不安に対しては神の国を実践したからである。

 

2005年8月8日(月)−10日()鹿児島市 天候晴れ

わかくさ保育園ボランテイア対応内容省略)

**8日衆院解散**

参議院で郵政民営化法案が否決され、小泉首相は直ちに衆議院を解散した。国会法上はおかしな選択と思うが、郵政民営化を公約とした小泉内閣が衆議院で可決、参院で秘訣の構図は、議会でなく、国民に直接民営化の是非を問うということで解散に踏み切ったのだと思う。それはそれ一理あることだ。であれば、衆院解散でなく、国民総議員とみなし、国民投票などの直接選択を問う手法もあったのではないか。現行法ではそのような手法は行使できない仕組みであれば、やはり衆院解散は妥当としなければならないだろう。いずれにしても、9月11日の選挙は争点がはっきりしていてわかりやすい選挙だ。

**9日:長崎原爆の日**

 長崎にも原爆が投じられた。一度ならず、二度までも。小生は長崎湾(千々和湾)半島対岸の小浜からあの「きのこ雲」を目撃した。熱線に直接当たることはなかったが、真昼になお空を焦がす猛烈な熱雲の広がりに恐怖をおぼえ、少しでも離れようと逃げた体験がある。情報は今日ほど早くはなかった。新聞や、ラジオの情報は新型爆弾が投下され、多くの犠牲者が出た模様、程度で実感がわかなかった。しかし、投下数日後は、徒歩で逃げ延びてきた人々の悲惨な状況を目のあたりにし、原爆がいかに恐ろしいものであったかがわかった。性別がわからない程に頭の髪が抜けているひと、ヤケドで血の滲んだ皮膚。歩きながら倒れて死ぬ人など、目撃にまさる情報はほかにない。思うに、原爆投下の瞬時に死亡した人より、放射線・熱線による数時間後、数日後の死者がはるかに多かった。この人々は極度の渇きと激痛に耐えられない苦痛のなかに、だれもなすすべもなく息を引き取ったと思う。改めてご冥福を祈る。

 

2005年8月11日(木)鹿児島市 天候晴れ

わかくさ保育園ボランテイア対応(内容省略)

**中国にて日本語を教える仲間の会**

左:加治佐さん・中:上山さん右:賈春雪さん

鹿児島市日中友好協会の海江田順三郎氏、企画部長の大石慶二氏、安徽省日本語教師の加治佐師、福建省日本語教師の上山師、湖南省日本語教師の竹下師、江西省日本語教師の池田、それに、鹿児島県国際交流課勤務の南京出身の女性(30歳ぐらい)、事務局から嘉 頼宣氏の8名が相集い、各自の紹介のなかで、中国の体験談に花が咲いた。共通して言えることは、中国学生の日本語熱が旺盛であること、よく学習することなどで、日本の学生に見習ってほしいところである。

 

2005年8月12日(金)―13(土)鹿児島市 天候晴れ

わかくさ保育園ボランテイア対応(内容省略)

 

2005年8月13日(土)鹿児島市 天候晴れ

**牧師会(鹿児島教会)**

鹿児島教会にて、第56回キリストの教会全国大会の総括と会計状況報告承認、大会報告書作成について検討。昨年7月、大阪地区大会の後を引き継ぎ1年がかりの準備であったが、2泊3日のプログラムを終わってみればアットいう間の宮崎大会であった。台風7号が接近で心配したが、関東北陸方面へそれてくれたし、宮崎は絶好の天気。財務状況も赤字を出さない範囲で、不足もせず、余りもしない状況であった。時期大会は高知で行うことになった。

**吉井秀夫牧師の説教はマタイ福音書より、「たとえ、全世界を儲けても、自分の命を失ったら何の得があろうか」についての奨励あり。

 

2005年8月14日(日)鹿児島市 天候晴れ

主日礼拝:鹿児島教会・串木野教会にて講壇担当:メッセージ主題:ダビデの人生に学ぶ。

詩篇27編:「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。」聖書協会口語訳

序:本篇第27篇を通してダビデが会得した、信仰生活の奥義を問いたい。

 

A 羊飼い少年ダビデ 羊飼いの少年時代に神を知る。若き日にその創り主を覚えよ。

B 油注がれたダビデ 人生の背後に神の意思あり。

C 常勝将軍ダビデ  上に立つものの困難と忍耐・平和主義

D 平和的逃亡    話し合っても解決しないときは、争いの相手から離れること

「主はわたしの光 私の救いだ わたしはだれを恐れよう」

「主はわたしの命のとりでだ わたしはだれを恐れよう」  詩篇27:1

E イスラエルの大王ダビデ 時が来れば、解決することが必ずある。

F 神中心の政治 神を拝し、国力を高めた。

G ダビデの失敗 ウリヤの妻バテシバとの姦淫はダビデの悩みとなる。悔い改めて神の許しをいただく。サタンは常に人を陥れようとするものだ。主の祈りの一節「悪よりお救いください」は最も強力な悪に且つ秘訣の祈り。

H ダビデの晩年 身内(息子)の反乱と後継者争い

結論

彼の人生の結論は詩篇27篇14節に要約される。

「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。 主を待ち望め」。

 

2005年8月15日(月)―18日(木)鹿児島市 天候晴れ

**わかくさ保育園ボランテイア対応(終了日)**

ボランテイア参加者からは簡単なアンケートを徴したが、「意義があった。」「こどもと触れられてよかった。」「来年もまた参加したい」などの声を聞けてうれしかった。総じて、参加メンバーは、みなまじめな、好感の持てる児童生徒たちであった。

 

**15日:終戦記念日**

八月や 六日 九日 十五日

誰が詠んだかわからないが、この数字は昭和一桁から二桁生まれの人には忘れられない数字である。

いうまでもなく、広島原爆投下(1945年8月6日)、長崎原爆投下(1945年8月9日)、終戦日(1945年8月15日)である。戦争に正義はない。日本の海外進出をはじめ、各条約の下で営まれる通商からあじまった。商売がことが発端であった。出国邦人の保護、権益の保護の名目で、些細な事件(義和団)がエスカレートし、日露戦争、日清戦争、日中戦争へと拡大し、ついに世界を巻き込む太平洋戦争へと拡大した。日本は、無条件降伏し、天皇中心軍閥独裁政治から民主政治へと舵を切り、戦後の独立を果たした。いま、また集団防衛システムや隣国との経済摩擦、歴史認識問題を抱えているが、その解決策としては忍耐と話し合いを貫き、詮方尽きたときは、最後の手段として、小さな日本(日本国内だけでの食料、物資の調達)に踏み切り、自然の恵みと創造の英知を生かして生きる道を選択すればよい。

 

2005年8月19日(金)鹿児島市雨

**わかくさ保育園のおとまり保育**

園長の案内を受け、恒例のわかくさ保育園のおとまり保育に参加した。園児は5歳児年長組。生憎雨となったが、室内行事であったので実行に支障はなかった。焼肉バーベキュウを中心に夕食を美味しく頂き、花火を楽しんだあと、午後9時には保育室で就寝。初めての親から離れての宿泊体験であったが、泣き出す子もいなくて、各人、一段と精神的成長を遂げたのではないか。内村理事、正本監事も出席してくださり、感謝。

 

2005年8月20日(土)鹿児島市 曇り

**長時間生放送:日本の行方**

日本の一連の戦争、原爆投下、終戦、アジア近隣諸国との今後ということで長時間放送がなされた。いわゆる終戦特番である。

アジア近隣との友好関係については、韓国、中国との関係が最も大きい。距離的にも近いし、経済的利害関係も深いからである。韓国は日本帝国の朝鮮半島併合、朝鮮人強制労働や慰安婦問題、竹島領有権問題、首相の靖国問題、歴史教科諸問題である。

 中国は南京大虐殺、首相の靖国問題、歴史教科諸問題、尖閣諸島の領有権問題である。いずれも、簡単に済む問題ではない。討論出席者の意見も右から左と割れていた。これは当然なことであり、歴史認識はその解釈と利用意図によって違ってくるものである。問題点として論議される点は歴史教科書と靖国問題である。

 @歴史教科書問題: 韓国や中国側の主張は、日本の歴史教科書に南京虐殺や慰安婦問題を薄めている。これは、日本が反省していないからだという。表現をどこまで詳述するかは頁数との関係で限度もあるだろう。でも、文部省検定に上がっている教科書は扶桑社のものも含めて、全部に日本のアジア進出、南京事件等は記されている。

ただ、小生の経験からすると、受験準備のため、日本の近現代史をサラッと通り過ぎるという面がある。そういうことでは、韓国・中国が主張するような熱心さではなかったと思う。

この点、日本人がもっと関心を持たなければならないことは確か。愛国教育のもとで、中国・韓国が声を強めれば強めるほど、その分日本は自虐的感情に悩まされることになり、反動として、日本も国粋主義者を生み出す結果となり、意見の一致を見ることはないであろう。

ここは、日本、中国、韓国の識者で、話題になっている歴史共同研究を継続し、その情報をインターネット等で公開し、国民各人が認識を深めることがベストだと思う。日本がいきなり大軍をもって韓国や中国へ攻め込んだわけではない。もともと通商から始まった関係であり、邦人保護、権利保護の立場から戦いに発展した宣戦布告なき戦争であった。

その歴史は一方が100%悪くて、片方が100%正しいということではないだろう。話し合いを無視し、武力行使(日本)と抵抗(韓国・中国)との関係の中で、常軌を外れた事件は起こりうる。これが戦争の罠であり、勝者も敗者も被害をこうむる。

敗者はものが言えない、言いにくいということもあることを勝者側とその傘下にいた国は理解して欲しいものだ。韓国・中国人の悲惨、苦難、犠牲に加え、日本人にも、言うに言われぬ悲惨を味わった人がいる。小生は日本の現近代史および世界史特にアジア史を改めて学んだ結果、上記のような結論に達した。

 A靖国問題:靖国問題は憲法で決められた正教分離の原則を破り、政府(旧厚生省)が関与した形で、サンフランシスコ条約を受諾した上、戦争犯罪者となって死刑に処せられたA級戦犯者を祭祀し、これを一国の首相が参拝するという、日本政府のダブルスタンダードに対して関係国、特に戦争被害をこうむった国からの理解が得られないところにある。

一国の運命を預けられた人(軍閥内閣)がその決断によって拡大した戦争の責任を取らされるのはあたりまえである。大きな企業が倒産し、甚大な財政破綻によって、蒙った経済損失と会社倒産による失業者を輩出した場合、誰が責任を取るかといえば、やはり最高責任者の社長である。

ましてや国においてをや。その責任を取らされた人がA級戦犯者であった。東京裁判は、戦勝国の押し付け裁判との批判はあるにしても、当時の内閣総理大臣や共謀して戦争拡大を進めた陸海空軍の最高者たちは、勝つ見込みのない戦争を、神風が吹くとか、神国だとかと宣伝しつつ、国民の犠牲を引き伸ばし、沖縄、東京を始め大阪、名古屋、福岡等焼夷弾投下による無差別焼土作戦を招来させ、広島、長崎への原爆投下に至らせた責任はあるといいたい。

東京裁判の判決を受け入れる形で、サンフランシスコ条約を受諾した日本は新しく平和日本を世界に宣言したことで、独立国として認められたのである。これが外へ向けての日本の姿勢であった。

 一方、国内的にはA級先般者として確定した者たちを「日本の国のために殉死した方々」として靖国神社に合祀した。これは、国民の反対が多くあったにも係わらず、政府特有の都合のよい法解釈で遂行された欺瞞行為である。これが内向きの姿勢。

 靖国問題は以上のように外向き・内向きに言うことと為すことが矛盾するからこそ、韓国中国から「反省がたりない」と批判されるのは当たり前である。靖国神社の発端は国、陸海軍省の管轄であったにしろ、新憲法下では一宗教法人。したがって、首相が公人として参拝するのは憲法違反でもある。英霊を祭る施設は千鳥淵霊園で、記念行事は終戦記念日に行われる、記念祭でよい。

 

2005年8月21日(日)鹿児島市 天候晴れ

玉里カトリック教会出席

今日の聖書朗読箇所はマタイ福音書16章。ピリポ・カイザリヤ地方でペテロがキリストに対して「あなたこそ、救い主キリスト、活ける神の子です。」と信仰告白した内容。キリストは彼の告白を受け入れ「汝はペテロなり。われこの岩の上に我が教会を建てん」。16:18といわれた。以後、ペテロは教会の指導的司教として活動する。ローマ教皇がペテロの後継者としての地位を保っているのはこの出典による。

草牟田の玉里カトリック教会に出席。帰国中のサンタマリア神父様に会うことが目的。同神父様は種子島教会の司祭として交流のあった方。小柄な愛嬌たっぷりの方。イタリア・シシリー島のご出身。

 ミサ聖祭後、久しぶりの再会にしばし団欒し、中国九江のカトリックの状況を話すと、「それはすばらしい。感謝すべきことです。」と大変喜び、九江の司祭にわたしからの贈り物を届けてくださいということになり、イタリヤ製の十字架祭具を預かった。

 

2005年8月22日(月)西之表 天候晴れ

**再度九江行きの準備**

九江で必要な書籍印刷物をケースに詰め、再度九江学院で向こう1年間を過すべく準備する。孫の圖師拓海が8月24日に12歳の誕生日を迎えるということで、24日は九江へ出立しなければならないことから、業務出張で留守の和俊氏を除いて、池田家3人、圖師家の4人で誕生パーテイを開く。

 

2005年8月23日(火)西之表 天候晴れ

**田上容正・最上大さん**

帰国して会いたかったひとにアポイントをとり、正午に田上容正氏を自宅に訪問。奥様の那枝さんはソロプチミストの例会でお留守だったが、容正氏と約1時間歓談。この御仁とは妻の関係で、小生が血縁なしの叔父の立場。先生は医療法人義順顕彰会理事長で、田上病院、老健施設わらび園、特別養護老人ホーム百合砂園に係わっておられる。容正氏は明年2月、コリーナ中種子で若狭姫物語のオペラ公演の発起人としてがんばるつもりと言っておられた。「これは素晴らしいことです。成功をお祈りします。」と申し上げる。

**オペラ若狭姫物語について**

種子島の鉄砲伝来にまつわる実話を本島出身の鹿児島大学音楽科教授、林幸光氏が企画し、台本をしたためられたが、作曲をまたず他界されたことから、長く原稿は日の目をみなかった。しかし、県内の音楽家斉藤正浩師によって作曲され、2003年第1回発表が行われた。

1543年種子島沖でポルトガル人乗船のジャンク船が難破した。遭難者を手厚くもてなした島主は、彼らの持っていた火縄銃に関心を示し、2千両という、当時としては破格の高値で銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金平に模作を命じた。

夜昼試作をするも、実用となる銃の完成はままならず、その苦心の父を見ていた娘若狭は憎からず思うポルトガル人に嫁ぐことと引き換えに、製法の技術を教えてもらうこととなり、此処に国産銃第1号が誕生した。秘訣は銃身の後尾の女螺子(ねじ)にあった。当時、日本には女螺子(めねじ)のきり方がなかった。だから、銃身尾を槌で塞ぐだけでは発壊して使い物にならなかった。めねじ技術の習得と導入によって種子島火縄銃は完成する。

銃は堺商人の目にとまり、織田信長の戦術手段となって戦国の世を平定した。このようなわけで、火縄銃のことを一般に「種子島」または「種子島銃」と呼ぶようになった。「若狭姫物語」は銃製作に係わった娘若狭の物語である。

**最上大さん**

師は医師で長く東京で開業医を営んでおられたが、昨年、一家をあげて種子島へ引き上げてこられた。現在医療法人義順顕彰会のわらび園の施設長として勤務されたばかりである。師は妻の義理兄にあたる。

種子島シオン学園の現施設があるところは、この大先生のお父様の屋敷あとで、10年ぐらい前に分譲していただいた土地である。師は小児科を専門としておられたが、このたびは高齢者保健に携わるということで、この日、鹿児島市で専門医学書を買ってこられたとのこと。医学の道は一生勉強と感じ入った。

 

2005年8月24日(水)鹿児島曇・上海雨・九江曇り

**その日のうちに九江へ*

台風11,12号が重なるように北上していた。天候が気になったが、渡航には支障なく午前7時高速船ロケットに乗って鹿児島港着。直ちに空港へ向かったが、午前10時には鹿児島空港着。早く着き過ぎて、搭乗手続き開始まで約2時間半まった。この便で、日本語教師として中国へ向かうものが3人になることがわかっていたので楽しみにしていたが、出航手続き40分前になって皆がそろった。

安徽省で教える予定の加治佐ナ師と北海道からの女性教師、福建省で教える上山坦師、それに初顔合わせ中村姉、彼女は宮之城出身で川内高校の後輩。湖南省で教鞭をとる。それに、鹿児島市から中国留学とのことで、推薦者は縁ある吉原定一氏。名は田中美代子さん。以上5名が同じ便で上海へ飛んだ。

皆さん、任地でそして学び舎で元気でお過ごしください。機は定刻13時30分鹿児島を離陸し、15時30分(上海時間14時30分)上海浦東国際空港着。同乗の皆さんとは互いの安全と健康と活躍を期し、別れる。

 上海では次の飛行までの時間待ちが約5時間。浦東国際空から中国国内線空港の虹橋空港にゆき、登場手続きを完了し、搭乗口で待った。中国時間で20時55分(日本時間23時55分)機上の人となり、1時間10分後には江西省南昌空港に降り立った。

手荷物受け取り後、迎えの人が着ているはずと探すが、誰も見えない。客待ちのタクシーは「どこまでか。のりなさい。乗りなさい・・・」あとは中国語でべらべら。「不要プーヨン」といっても、客引きが付きまとう。「友人が迎えに来る」と英語でいうと。「そうか」と客引きは納得したらしい。だが待てども一向に迎えが来ない。

「メールで着日と時間を知らせておいたんだがなー」と思いつつも、待合室にだんだん人影が少なくなると不安になり、タクシーで九江まで約2時間乗ることにした。九江まで400元とまず値段の交渉をしてから九江市へ向かって走り出してまもなく、運転手の携帯が鳴った。九江学院差し向けの車からだった。「Nickだ。今迎えに来たから、高速入り口で待っているように。」とのことだった。

「どうして、われわれに連絡できたの?」と尋ねると、Nickいわく、空港で他の運転手に尋ねた。「英語を話す客がさっき、乗ったよ。車ナンバーは○○番。」ラッキー! Nickが探しつけてくれなければ、どうなっていたことやら。乗った分の300元を支払い、荷物を移し変え、九江へ向かった。それにしてももう少し待っておればよかったのに、タクシーに乗ってしまった自分が悪いのです。

Nickいわく、「夜、タクシーに乗るのは危険だからね。」教え諭すように、小生の目を見ながらいった。「
I see!(わかった)と公栄さんしょんぼり。かくて、夜中の12時過ぎに九江の宿舎に安着。種子島を発って、その日のうちに九江へ着くなんて。65年前は8日ぐらいかけて着いたことを考えると隔世の感がする。

 

2005年8月25日(木)九江市 天候晴れ

**片付け**

まずは、部屋の片づけと、日用品の買出し。食料類(肉類、野菜類、穀類、卵、油、トースト用パン、果物類)、衛生用品(石鹸・チリ紙)を購入。7月はじめ九江を発つ時と大変わった町の光景を見た。発つ直前まで、人が通る道路はいたるところ露店でいっぱいであったが、今回は一軒の店もない。多分公安が取り締まるようになったのだろう。

北京オリンピックを迎えるにあたり、綺麗な町にしなければとの発想だろうか。それとも、何か他の理由で?それにしても、露天で小さな台に果物や肉魚、野菜卵を売っていた人たちの生計はどうなったのだろう。彼らは、どこか商売できる場所の確保が出来たのだろうか。せっかく、ともだちになっていた露天店の御仁たちとも会えなくなった。

 

2005年8月26日(金)九江市天候晴れ

**高雅令・呉越来家**

福建省アモイの高雅令嬢は日本語1級試験をめざして早くから宿舎に帰り勉強に精出ししてそうである。呉越嬢は江蘇省の両親の元へ帰っていたが、あまりの暑さに耐えかねて、九江へ早めの帰りであった。この二人は日本語会話に堪能で、よく勉強する生徒である。家内手作りの五目寿司で夕食をともにした。

 

2005年8月27日(土)九江市曇り

**日記の整理**

パソコンを九江においていたので、日記が飛び飛びになっており、メモを頼りに整理した。日誌は自分の備忘録だが、人が読むということになると、少し事情が変わる。構文・表現にも気をつけねばならいし、個人記録も当たり障りのないところでということにもなる。書きたくても、本音が書けないところもある。そんなわけだが、欠落部分を補填して8月も生活記録的に、あるときはコメント的にまとめた。

 

2005年8月28日(日)九江市天候雨のち曇り

**九江市愛国教会・九江市三自愛教会出席**

8時30分からの礼拝に参加する。マタイ福音書16章26より「たとえ、全世界を儲けても、自分の命を失ったら何の得があろうか」について。ポルトガル宣教師フランシスコザビエルは1949年8月15日、日本人逃亡武士弥次郎に伴われ、鹿児島祇園の洲に上陸した。ザビエルの宣教の使命感はイエスのこの言葉に触発されたものであった。

礼拝後、サンタマリヤ司祭からの届け物を九江市の司祭に渡した。キング女子はすでに九江を離れ、アフリカ・リビアで活動されていることであろう。

 9時30分から始まるプロテスタント教会へ。着くと、賛美歌の声が道路にも響いていた。指導はコーラス隊の兄弟。賛美の歌はいつ聴いてもすばらしい。本日の説教者は新任の若い女性牧師が講壇に立っていた。終了後、既知の兄弟姉妹に再来の挨拶。ベッキー嬢やヨエル嬢もすでに九江を離れていた。ベッキーはプリンストン大学に復学し、神学を学び、主の召しにしたがって新しい働きを始めるであろう。主のご加護を祈る。

 

2005年8月29日(月)九江市天候曇り

**部屋移り**

九江学院国際交流課外事部のNick氏がやってきて、部屋を移りたければどうぞといった。従来3階に住んでいたが、二階のヨエル嬢の部屋も空いていたので、一つでも低い階がいいということで移ることにした。学生の応援を送ろうか?といってくれたが、大した荷物でもないので、自分たちですることにした。衣類と書籍ぐらいだからわけないと思ったが、実際やってみて、片付けも兼ねてとなって、結構時間を要した。屋移りが終わりシャワーをして、新室に伏した。

 

2005年8月30日(火)九江市天候曇のち晴れ

**大掃除**

午前中は部屋の掃除で、2ケ月分の埃取りから始まった。窓の桟、床、書棚、ソファーの下、机の上、電話機、食卓、冷蔵庫、洗濯機ありとあらゆる平たいものの上はみなゴミ埃がたまっていて、運び役小生、雑巾がけ妻と汗を流してさっぱりなった。部屋も綺麗になってこれで学生たちを迎える準備が出来た。

 午後広東省の曾春燕嬢がやってきた。彼女は広東省日系自動車部品製造企業で2週間ほどアルバイトをしたという。そのとき、感じたことだそうだが、「専門用語が多くて、企業の中では私の日本語がほとんど役にたちませんでした。」といっていた。

「専門用語は新しい外国語とおなじだよ」というと「そうですね」と改めて納得した風だった。彼女と妻手作りの夕食をたべ、あと夜遅くまで写真を見たり、日本の観光案内パンフレットを見たりして遊んで帰った。

 

インターネットでみる中国関係のニュースのなかに次のようなものがあった。

農民2000人が村役場を襲撃中国・湖南省【香港=関泰晴】1日付の香港英字紙「サウスチャイナ・モーニングポスト」によると、中国湖南省桂陽県で8月29日、地元農民2000人が村役場前までデモ行進したうえ、庁舎内に押し入り、窓ガラスなどを破壊した。

公安当局は警察官100人を派遣して騒ぎを鎮圧した。同日早朝、収穫後のタバコの葉をトラックで村外に運んで売ろうとしていた農民2人が死亡する事件があった。農民たちは「役人が2人を暴行して殺した」と主張、抗議行動に発展した。村役場はタバコの葉の販売権を独占しており、「よそに持って行けば、もっと高値で売れる」とする農民は反発していたようだ。

先月には、広東省中山市で、土地の強制収用に抗議する農民数百人が地元政府の出張所を取り囲んだ。また、同省広州市でも、村の役人の不正に怒る農民と警官隊が衝突した。(
2005912255  読売新聞)

 

2005年8月31日(水)天気晴れ

**戦後60年**

戦後60年。日本にとっては終戦記念日(敗戦日)。韓国、中国、ロシヤ、アメリカ、イギリス、オーストアラリヤ、フランス、オランダにとっては戦勝記念日。双方で何百万人の将兵の戦死者、及び民間人の戦争被害者をだした。この戦争で、一体だれが得をしただろう。

背後にあって戦争特需を作り出し、ぼろもうけをたくらんだやからであろう。戦争の仕掛け人、今もたしかに暗躍する。どんな理由があったにしろ、一旦戦争になってしまえば、人命喪失、法外な国家予算の投入。国の疲弊とつながる。月末の米国ニューオリンズのハリケーン・カトリーナで、脆くも戦争している国の悪い面が出た。内の守りが顧みられていなかったことを露呈した。災害防御のための予算を切って、イラク戦争へ回していたことが明らかになったことだ。すべては、後の祭り、ブッシュ大統領始め、戦争推進者たちの責任がアメリカ国民から問われるであろう。

今日で8月も終わり。小生にとっては、日本での親族友人たちとの交わり、ボランテア活動、そしてまた明日から始まる九江での生活。少しでも、個人で出来る国際交流を進めたい。小生にできる日中友好は江西省九江学院における日本語教師の実践を通して、誠心誠意勤めること。

 虹の架け橋パート4をお届けします。
今日で8月も終わり。小生にとっては、日本での親族友人たちとの交わり、ボランテア活動、そしてまた明日から始まる九江での生活。少しでも、個人で出来る国際交流を進めたい。小生にできる日中友好は江西省九江学院における日本語教師の実践を通して、誠心誠意勤めること。              池田公榮(在九江)