虹の架け橋
池田公栄・九江学院日本語教師日記
平成17年9月1日〜10月31日
九江記は写真なしの文字記録であったが、日本から仕入れたデジタルカメラで九江の風景や風俗に関するものを撮影し、鋭意本稿に掲載したい。手始めは九江学院日本語学科の授業風景から入る。
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* 新年度が始まり ……2005/09/17…

**授業風景**
九江記は写真なしの文字記録であったが、日本から仕入れたデジタルカメラで九江の風景や風俗に関するものを撮影し、鋭意本稿に掲載したい。手始めは九江学院日本語学科の授業風景から入る。

中国では9月が新学期となる。新入生もどっと入ってきた。小生のクラスは3年生。今年12月になると、各々日本語1級、2級を目指しての国家試験を受ける。だから、全員から必死で学ぶ気迫が伝わってくる。寸暇を惜しんで単語を暗記し、出題模擬テストのドリルを消化している。


**新入生は軍事訓練**
本校区キャンパスの新入生は約1600人。この生徒たちは迷彩服に身を固め、整列、歩行、長距離歩行等の軍事訓練に明け暮れている。軍の士官が直接指揮を執り、学生たちは、まだ暑い日中の屋外で、男女とも訓練に励んでいる。熱中症にならなければよいがと心配。

一次休憩のときは、大きな水タンクにどっと走り寄り、水分の補給をしている。18歳の少年たちはまだ顔にあどけなさがのこり、真っ黒に日焼けした顔に目だけがきらりと光っているのは、いかにもかわいらしい。訓練は2週間続き、聞くところによると、10月になって、初めて学習に入るのだそうである。

* 九江の集落について ……2005/06/22…

**九江の集落について**

九江はいま急ピッチで都市計画が進行している。此処九江市は現在450万人だがそれを近々に510万人に増やす計画である。長江(揚子江)上流の山峡ダム建設にともない、100万人以上の住民移動を控えて、この増員計画は進められている。

 反面、永年保たれてきた九江の古いものがなくなってゆく。その最たるものが集落の形態である。各集落は統合され、大規模な高層住宅地に変わりつつある。本来の中国の集落は日本の校区の形態に似ており、田園的なものが多い。

 そして集落は日本のように田畑の諸所や森蔭に住家が転々とあるのではなく、必ず城壁で囲まれたところに赤レンガの住家が密集させてある。塀は2メートル以上あり、それは城壁の態をなしている。

 集落の呼び方も、入り口の門に「○○城区」とかいてあって、城なのだ。いったんそこに入ると、他の地区へ通り抜けることが出来ない。またもとの正門まで引き返さなければならない。小生は近道をしようとして、袋の鼠同然となり、またもと来た道に引き返したという経験が数度あった。

 これは完璧な城郭なのだ。ここが日本の校区集落と違う点である。新高層ビル群は、東京大阪のような大都会スタイルで、旧城址はどんどんなくなっていく。

* 教師の日の一日旅行 ……2005/09/17…
2005年9月10日(土)天気晴れ

**教師の日の職員旅行**

 9月10日は中国では「教師の日」として尊ばれる。学生たちはカードや花を先生に贈って教師を称え、感謝する。われわれ外国人教師に対しては、感謝を込めて、旅行の企画が組まれた。

 家内と共に参加し、この9月から日本語教師として仲間に加わられた井村嘉男先生も一緒。先生は九江市と友好都市盟約を結んでいる奈良県大和高田市の方で、友好親善交流事業の一環としておいでになった先生。英語科の外国人教師たちあわせて23名、バスで武宇(ウーニン)という場所にいった。

**武宇の言い伝え**

 ここは、かって日本軍が戦火を交えた場所で、敵味方多くの戦死者を出したところだという。この地域の川が将兵の血で染まり、しばらく飲用できなかったほどの激戦地であったらしい。

 そのせいか、この地域では今でもここを「魔の道」というそうで、この地区で交通事故が多発するのは、戦争中の亡霊がなせることと恐れられているそうである。

**ダム湖半で**

 武宇は長江の支流にあたり、今日ではその地形を利用して、見事なダムとなっている。この地域の貴重な水がめであり、灌漑用水でもある。われわれは、このダムの取水口まで行き、きれいな水をみた。

 中国の水はいつも濁っているというイメージとは違って此処の水はとても澄み切っている。希望者は筏にのって沖へゆき、仕掛け網を引き上げて鯉・えび・キスなどの新鮮な魚を持ち帰った。

 休憩所の婦人が、われわれの目の前で鯉を料理し、その地で取れた新鮮な野菜とともに昼食を準備してくれた。採りたての食材による田舎料理はまた格別。都会のどんな高級料理より美味しい。

* 九江富士 ……2005/09/17…

**九江富士**

 9月10日の一日旅行でのこと。食事をした湖畔の一角に富士山のかたちをした1547mの武宇岩という山があった。私がこれは「九江富士」と呼んではどうかといったら皆喜んでくれた。どこの地域にも富士山の形をした山はよく見かけるものである。わがふるさとの薩摩富士(開門岳)もそう。

* 長江
……2005/09/17…

2005年9月14日(水)天気晴れ

**長江は濁っていても生きている**

長江(昔、日本では揚子江と呼んだ)はアマゾン川と並んで全長6300キロ。世界で二番目に長い川。有史以前から中国大陸を西から東に横断するように流れ、東シナ海(東中国海)に注ぐ。

 数十万年に及ぶ川の営みは地域の野生動物および植物、人畜を養い、農耕に利用され、豊かな実りをもたらした。今日、河口の三角州には上海という近代都市が繁栄している。

 しかし、この長江、上流や支流の小川は岩清水、清流であったろうが、中流以降は濁っている(九江港より撮影した写真参照)。中国の大部分が赤土であるからであるが、その長さ(大きさ)ゆえにさまざまな汚物も混入し、自助浄化できないままに大洋に注いでいる。

 しかし、濁ってはいるが、生きているのだ。多くの淡水魚が育まれていることは、水が生きている証拠である。流域の中国人もこのような広大で、他民族、多言語、多宗教環境のなかで、濁った川に育つ淡水魚のように、生きる術を身に着けていると思う。

 この長江も東シナ海に注ぎ、大洋と出会い、暖流に運ばれたときに、再び水蒸気に変えられ、大陸にもどってくる。恵みの雨として!
「清濁併せ呑む」といわれるが、長江にぴったり当てはまる言葉だと思う。
* 礼拝 ……2005/09/17…

2005年9月11日(日)天気晴れ。

**主日礼拝**

 マタイ福音書18章22節より イエスは七の七十倍許しなさいと教えておられる。人は「自分にあまく、他人に厳しい」人の小さな欠点をあげつらい告発するが、自分には厳しくない。

 人を裁かず、自分に厳しくあることこそ必要ではないか。主の祈りの中にも「私たちも、ほかの人を許しますから、私たちの罪をお許しください」と祈るように勧められている。人をまず許すこと。それは他でもなく、自分が許されることにつながる。
* 弥生時代に回帰 ……2005/09/17…

2005年9月13日(火)天気晴れ

**弥生時代に回帰したような**

 先の武宇(ウーニン)旅行のとき、河岸の石積み工事の現場を妬く時間見続けた。他の仲間たちは、ボートで川くだりしている時間帯で、到着地点に先回りして待機していたとき、この作業現場に偶然出会あった。

 男工たちが二人一組になって、川の中州から適当な石を担いでくる。石を運ぶ道具はオートバイのタイヤの廃材。担い棒は丸太。セメント用の砂と砂利は川砂と川砂利。何から何まで自然に転がっているものを利用しての土木作業。既成の材料はセメントだけ。

 この光景、弥生時代の土木作業もこのようではなかったかと思った。出来栄えは、日本の棚田の石積みと同じ。縄文人の世界日本へ、中国、韓国から渡来して田畑を作り、狩猟生活から農耕生活に変えることになるのが、この石積みの技術であった。以後の時代を日本史では弥生時代と呼んだ。

 しばし弥生の時代にタイムスリップした一駒であった。工人たちは、近郊で農業に携わっている人々であり、日銭稼ぎに土工になるのだそうだ。
* 恵みってなんだ? ……2005/09/18…

2005年9月18日(日)天気晴

**教会で礼拝**

「後のものは先になり、先のものは後になる。」これは謎なぞ遊びの言葉ではない。れっきとしたマタイ福音書20章15節のイエスの言葉である。

 「ぶどう園の労働者の喩え」の一節。農園主が早朝から就業した労働者、午後から終業した労働者、午後5時の終業直前から就業した労働者に同じ賃金を支払ったというのだ。当然のように朝から組は不公平だと文句をいう。

 だが、農園主は、「契約通り支払っている。なぜいけない?」と譲らない。この例話の最後でイエスが冒頭の言葉を語られたわけ。
 さて、われわれはこのことばをどう解釈するか。平等思想からだと確かに文句を言いたい。だが、契約時間働けなかった失業者を普通の労働者並みに扱い、一日分の日当を支給したのは、弱者に対する深い思いやりからだ。

 報酬=労働時間×労働単価=対価は一般的考え方。報酬=小労働時間×思いやり=恵みの考え方。神は時に、必要なら恵みを与え給う。この恵み、自分で感じ取り、自分の決断で受け取るものである。

 「後のものは先になり、先のものは後になる。」とは、イソップ物語のウサギと亀の寓話のように、先のものが自惚れていて、休憩している間に、亀は率先努力してウサギを追い越し、ウサギが気づいたときは後の祭り。

 または、『驕れるもの久しからず』という平家衰亡の解釈にも通じることはあるが、本福音書からはこのような解釈以上のものを汲み取りたい。
 礼拝後、洗礼式
(バプテスマ)があった。90名以上の人が洗礼をうけた。イスラム教からの改宗者もいるという。中国のキリスト教はいま大発展である。キリストの愛の教えが根付き、神の国実現がこの中国から始まるなら、それこそ彼らのいう『中華思想』実現も夢ではない。

大事なことは、先進キリスト教国といわれる国々がやってきたこと、今、していることを真似るのでなく、キリストの言葉に真似る中国キリスト教になってほしい。そうすれば、いかなる為政者もこれを抑えることは出来ないであろう。
写真:右、洗礼を受ける決断者  左、洗礼を受けた夫婦

* 中国の中秋節 ……2005/09/18…

**中秋節**

 今日9月18日は中秋の名月。中国ではとても大切な日として守られ、楽しみにもされている。家族が月を見ながら団欒のときを持つのが普通である。寮の学生たちが、長江の川岸でバーベキューをするからと案内してくれたので参加した。

 日本でも、気の合うもの同志でアウトドアーを楽しんだが、雰囲気は日本のそれとかわりはない。満月をみながら、焼肉をつつき、学生たちと歓談した。また、童心にかえり、家内指導のゲームが盛り上がった。
 
 中秋節で皆が必ず食べるものが「月餅」という菓子。白いあんこに栗や卵の黄身を包み込んみ薄皮をこんがりと焼いたものでなかなか美味しい。値段も結構なもの。

写真左:月餅とか月に似たボンタンは縁起物 右東天の満月

* **宅地造成** ……2005/09/24…

 中国では土地はすべて国家のものであり、国民は一期50年の使用権のみ有している。九江は近隣からの急激な人口増を控え、急ピッチで住宅を整備している。古くなった建物を壊し、新たに宅地造成を図っている。

以前は、土木工事もすべて人海戦術で進められていたが、最近では、重機をつかってあっという間に整地する姿は新中国の変わりようでもある。
  写真:旧家屋を壊し、新たな宅地を造成している

* 国慶節 ……2005/09/30…

**国慶節**

10月1日、中国は国慶節である。第56回目の現中国政府の祝日。学院内の掲示板にも「中華人民共和国戦勝60周年」と題し、パネル説明と写真展示が行われている。

その概要:中国語の文を以下のように翻訳。

「九・一八事変@に始まる日本軍国主義者たちは日益の為、中国東北・華北・華中・華南を鯨呑す。為に、中国人民未曾有の大被害を蒙る。ここに至り、中国人民大々的に抗日活動を展開、東北義勇軍を始め、抗日連合集団が上海、華北において組織され、西安事変Aを機に国共合作B相成り、抗日民族戦線立ち上る。

中国人民は「打倒日本」を合言葉に、心を一にし、果敢に戦い、もろもろの英雄、奮勇を歴史に留める。為に、170万人に及ぶ日本軍を殲灰に帰させたり。以後、中国共産党傘下の八露軍及び新四軍人民抗日武装勢力はことごとく失地回復をはかり、日本帝国主義を降伏へと追撃。これまさに奇跡なり。


かかる世界的不法集団に対し、中国国民の果敢なる抵抗に合わせ、米英軍の援助の賜大なりと追記せざるを得ざるべし。
 本年戦勝60周年を憶え、抗日戦の歴史、愛国精神、報国の志を堅固にし、中国共産党指導の下、中華民族の大復興に努力奮励致されたし。」
                     以上。

註@:柳条湖事件、満州事変とも呼ばれ、1931年9月18日、奉天(現在瀋陽)柳条湖近くの満州鉄道を爆破(日本軍が仕掛けたとされる)したことをきっかけに、日本軍が北進を開始した事件。

 以後、戦線布告なく拡大戦となり、中国と日本の15年戦争の発端となる。

註A:西安事件、毛沢東率いる共産軍と蒋介石率いる国民党軍は中国の指導権争いに明け暮れ、特に蒋介石は日本軍の北部進攻にも不干渉主義を貫いた。

 たまたま、共産軍討伐のため、西安を巡視した蒋介石を部下の張学良(張作霖の息子)が幽閉し、国共合作を進言し、周恩来との会談を導き、ついに蒋介石が国共合作に意思変換した事件。

 このときの、張学良の行為は、主を幽閉するという謀反ともいえる行為に出たが、これは、中国の運命を国共合作に一か八かを掛けたものだった。この西安事件、坂本竜馬が薩長連合を働きかけたのと似ている。

 張学良は共産主義者であったわけではなく、蒋介石と台湾に至るまで終始行動を共にし、100歳をもって生涯を閉じていることからも彼の二心なきことがわかる。これ、中国の坂本竜馬でなないか。

註B:国共合作は互いに中国内で主導権争いを演じていた国民党軍の蒋介石と共産党軍の毛沢東の内紛が続いていたものを、西安事件を機に日本を共通の敵とすることで一致したことをいう。

 それまでは、どう言う訳か、蒋介石は日本の北進に不干渉主義をとっていた。ちなみに、蒋介石、周恩来両人はかって日本に留学した人物。周恩来は戦後の日中友好条約締結において、中国側の代表として活躍した。

 日本側の田中角栄首相に「日本人も空襲、敗戦により未曾有の痛みをうけただろう。よって、戦後賠償はしないことにする。」と発言した美談を思い出す。
 張学良ならびに周恩来両名、近代日中の歴史に忘れられてならない人物。

写真パネルでは

1、走向前面抗戦期  2、中流抵抗  3、最終勝利と区分し、写真展示と簡単な説明がしてある。
その主なるもの:
@ 1931年9月18日 九・一八事件(柳条湖事件)
A 1931年9月20日 中国共産党日本帝国主義強暴占領東三省事件宣言
B 1935年12月9日 学生愛国運動起挙「停止内戦・一致対外」
C 1936年12月4日 西安事件
D 1937年8月13日 日本軍上海占領
E 1937年12月13日 南京虐殺(虐殺の数次は挙げないでサラッと記録していたのは意外)
F その他、ベルリン陥落、米軍の日本本土爆撃、原爆投下きのこ雲写真等
G 1945年8月20日 日本軍の降伏文書調印式等の写真を説明つきで展示。

写真説明:左 対日抗戦勝利60周年記念の表題あり
     右 九江市の住宅公団入り口の祝国慶の垂れ幕 

* 菊香る季節

**菊薫る**

大学のいり口が菊とサルビアできれいに飾られ、目を楽しましてくれる。10月と11月は菊薫る季節。わかくさ保育園で今夏帰国のとき仕込んだ3本仕立ての菊も蕾を持ったとの報告が入り、嬉しかった。色々な植物も時を知り、時が来れば精一杯自己主張するのだなと感心する。

今日で9月は終わり。明日から学校は中国の国慶節で一週間の休み。中国国内旅行をするには絶好の機会である。よい気分転換の機会に感謝したい。

**幼稚園**

 高雅令、呉越、葉学生の手伝いをもらい、九江市中心幼稚園2クラスで日本語の挨拶、歌を教える。昨年見かけた子どもたちもいて、懐かしそうに振舞った。「静かに」といっても、なかなか静かにしてくれない。

久しぶりの訪問に園児たちも興奮気味。いずこの子どもも、嬉しいときはつい制御が利かなくなり、ガヤガヤの雰囲気になるものである。
* 満艦飾 ……2005/09/30…

**学生寮は満艦飾**

新入生と新学部編入により、師専校区が賑やかになった。九江学院33000人の学生のうち、役5000人が本校区に移動してきた。最近特に見ものが寮の洗濯物干し風景。満艦飾さながらである。日本でも、天気の好い日、団地テラスに、同様の光景を作り出していたことを思い出した。土日ともなれば、どのテラスも色とりどりの洗濯物干し場となる。


* 学長晩餐会 ……2005/09/30…

**学長晩餐会**

 国慶節を祝い、学長招待の晩餐会が本部ホテルで行われた。日本語教師、英語教師合わせて24名が集合し、中華料理のもてなしに与った。


* 宇紅さん井村さんと教会へ ……2005/09/30…

**日本でも働いたことのある宇紅(うこう)さん教会へ

 
井村嘉男先生の紹介で宇紅(うこう)さんとおっしゃる婦人が教会へ行きたいとのことで、教会の正門前でしばらく待った。程なく、落合い、共に礼拝に出席した。

 この宇さん、中国北方(旧満州)の出身で日本語がとても達者なのには驚いた。現在、九江市国際貿易関係の仕事をなさっているとのこと。

 日本にも何回か仕事でいったことがあるとおっしゃっていた。二人とも教会出席をとても喜んでくださった。なんだかこちらもさわやかな気分になった。

写真:宇さん、家内、葉学生、井村先生 教会の前で
* 乗車率200%?
……2005/10/07…

 紀珂学生の誘いで江西省贛州(ガンチェン)に行くことになった。
 国慶節期間の旅は混雑することは分かっていたが、折角の誘い、無碍にも断れず、妻と共に行くことに相成る。往路は座席指定が取れず、早めの並びとなった。久しぶりの汽車旅行。昭和30年代を思い出す。
 
 九江駅で乗客予定者2千人位いただろうか。改札が始まるとわれ先へとホームへ走る。我老人夫婦には真似はできず、プラットホームでは殆んど最後列に並ぶことになる。

 列車が25分遅れで入ってくる。停車すると、駅員がホイッスルをやたらと吹き鳴らし、「整列!」とでも言っているんだろうか?でも乗客は聞きはしない。駅員「下車が先!」と叫んでいるが、下車する人をラグビーのタックルさながら押し返し、乗り込もうとする。窓から下車乗車する人もいたりで凄まじい。終戦直後の買出列車さながらである。(註@) ぴ!ぴ!ぴ!とホイッスル。この風景カメラに収めたかったがそんな余裕等あるはずもない。

 やれやれ!やっと乗り込んだところで、車内は通行も出来ず、トイレの傍に糞詰まり。紀珂嬢が「この老人のために席を譲ってくれませんか」と頼んでくれた。若い男性が一つ譲ってくれて助かった。妻を座ってもらい、他は人に挟まれるように、自分の体力のことを考えながら車中のひとりとなる。

『南昌までいったら80%は降りますからね。』とは紀珂嬢のことば。この列車、北京西駅始発の贛州止まり。前晩8時に北京を発ってすでに16時間。九江から更に8時間で合計24時間の走行。南昌には乗車して約2時間後に着く。さすが80%は下車したが、多少また乗車した。われわれ一行は幸いに全員着座できたが、まだ立ち客がいた。これ、乗車率200%かな?
 
 汽車の旅はおのずと隣近所の席人と話が始まる。われわれが日本語で話すと不思議そうにみている。なんだかわれわれ4名の為に、他の人が外国人みたいな錯覚。帰省中の学生は英語である。英語はすっかり国際語になってしまった。20年後は中国語が国際語かな?
 
 かくて、8時間の乗車を終え、贛州に着く。紀珂嬢の父親が出迎えてくれ、その家の客人となる。

註@1945年8月ごろから1946年8月ごろまで、日本は食糧事情が悪く、田舎に食料を買うために汽車に乗り、または乗り継ぎながら買出しに出かけたものである。

写真:左、老人子どもを大切にの看板 右ごった返す乗客


* 贛州教会で礼拝
……2005/10/07…

贛州市三自愛教会に出席。午前8時、ホームステイさせていただいた紀珂さんの祖父、祖母もクリスチャンで、一緒に教会へ。

この教会は600uぐらいの会堂だが、千人以上は集まっていた。会堂はいっぱいで空き席はない。座れない人は、祈祷室という別室で実況ビデオを通して礼拝に参加しているし、会堂の両側の路地にも椅子をおいて座っている。

中国の教会はいまほんとに盛んになりつつある。この教会で聖餐式に与り、共に主の祈りを捧げた。当日南昌(江西省の首都)からきた牧師さんと写真に納まる。 写真左:聖歌隊 中牧師と 右紀珂さん家族と
* 贛州市をみる
……2005/10/07…

 中国江南地方の一市。江西省に西にあたり、広東省に近い市。贛州市は11の県を持っており、九江市よりやや規模が大きい。章江と貢江の二河川が合流しているところで、贛の字は章と貢を合わせた字だそうで、なるほどと理解する。

 ここは広東省に近く、経済発展の影響は九江より目覚しく、物価も九江より2割ほど高い。此処は、学生の紀珂さんの勧めで家内ともども4泊5日のホ−ムステイの場と相成った。

追記:中国と日本では県と市があべこべ。日本は県市町村。中国では市県鎮となる。

左:貢江の浮橋 中:街を守る長城の一部 右:市街
* 通天岩 ……2005/10/07…

 
学生3人に連れられ、通天岩へ。此処は、天然の岩に仏像を彫った仏教の聖地。大分の摩崖佛のようなもの。多くの観光客が来ている。僧服を着た人が、「120元出して記帳すれば、その人の幸福を祈願してあげる。」ということで、盛んに勧誘されたが、「不用(ブヨン)」と断る。宗教施設が金儲けの手段になっていることは残念。観光名所と呼ばれる聖地、拝観料・入園料・土産品と、いずこも同じ。
 
 ここで興味を引いたのは、石刻のなかに、ペルシャ風の菩薩が刻まれていたことだ。中国仏教、ひいては日本の仏教は、タイやミヤンマーの小乗仏教と確かに違う。悟りの宗教というより、弥勒菩薩信仰、罪を許し、慈愛に満ちた仏様、祈りを聞いてくださり、人間を救うという教義はキリスト教そのものだ。

西域を経て、長安に届いたキリスト教(景教)は小乗仏教と混交し大乗仏教となり、日本へも伝わったとも考えられる。日本に帰化した高僧鑑真も九江東林寺から修行のため、一時、長安へ上り、景教に触れたものと思考される。その証拠に、東林寺は浄土仏教の総本山となったことでも了解できる。空海、最澄ほかの留学僧等も浄土思想化された仏教に触れ、日本に広めた。

弥勒(ミロク)はメシアの中国音訳ともいわれる。空海のごときは、聖書の写しを日本に持ち帰ったともいわれる。真言とはまことの言葉。聖書の『始めに言葉ありき。』(ヨハネ福音書)そのものではなかろうか。密教は神秘的要素を持っており、加持祈祷のたぐいは祈りが聞かれるとするキリスト教そのもの。親鸞の歎異抄「善人往生す まして 悪人をや」は聖書ロマ書の思想。

写真左:石に掘り込んだ像  中:ペルシャ風仏像 右:奥はペルシャ風仏像

* 森林資源 ……2005/10/07…


 江西省は平地、湿田がおおいが、丘陵地も多く、そこには樹齢10年から20年ほどの松、杉が植林されている。毛沢東は大躍進計画で中国での鉄鋼生産に檄をとばし、国民総出で粗鉄つくりに励み、熱源とするため、木という木を伐採した。

為にほとんど禿山となり、出来上がった粗鉄は使いものにならず、土地は荒れ、大失策であったという。ために、再び植林を奨励し、今日なお、植林事業は進められ、日本からも「緑の遣唐使」といわれるNPOの人々が継続応援している。森林は水資源確保、環境保全、地球温暖化の緩和にも役立つ。禿山を残すことは罪悪だ。

 日本において然り。森林保護と育成は日本においてこそ重要施策のひとつ。中国の森林の成長は中国そのものの成長と比例するであろう。

左:樹齢10年ぐらいの松  右:芳香性のある樹木(樹名不明)

* 水資源 ……2005/10/07…

 中国には湖沿が多い。そして、市街は必ずといってよいほど、川を挟んで栄えている。水は生物が生きるに欠かせぬもの、植物の生育に欠かせぬもの。

ハイウェイ、鉄道、航空手段が未整備のときは、太古より川を上下して物流手段とした。車窓を眺めつつ、世界中の川や湖をパイプでつなぎ、乾燥地帯に植樹し緑化する。

人もその水を利用する。こういったプロゼクトを完成できないものかと考える。水を世界共通の財産にする考えはどうだろう。このことは、皆で母なる地球を病みから救う手助けをすることになる。

石油パイプラインが出来ているのだから水パイプラインが出来ないはずはない。戦争する経費を水パイプライン敷設と水の完全管理にまわす方がよほど有意義ではないか。


 日本の水は特にすばらしい。飲料によし。緑によし。ひところ、屋久島の水を原油タンカーでサウジへ運ぶという話があったが、途切れてしまった。何が障害だったんだろう。このプロゼクトもう一回取り組んでほしい。

日本の水を飲んだら、そのうまさが忘れられないだろう。日本の水は資源に乏しいなかで、唯一、大いなる資源である。水質、水量共に世界一等国である。この水をこよなく大切にしよう。

写真:水の恵みに与かる人類
 
* *車窓より:稲作** ……2005/10/07…


江南(中国長江南部一帯)の車窓いたるところ黄金のジュータン。江南一帯が米どころ。まさに刈り入れが始まろうとしている。

農民たちにとってはその汗が報われるとき。中国は米の種類も多く、白米のほか、赤、黒米もある。赤米や黒米はお粥にして食する。

日本でも赤米が健康食として重宝がられている。白米も種類が多く、日本人向きの粘り気と風味のある米、チャーハンに適する固めの米等数種。人民公社制から自由経済システムに変わり、農民の生産意欲は旺盛になり、食料の自給が可能になった。

自国の食がまかなえるということは国つくりの根幹である。自給率40%(家畜分を除くと28%)という日本の農業政策はおかしい。

100%食の確保が可能なとき、一国は存続し得る。ここは為政者も住民も熟慮して将来展望を確立すべきである。
* *旅で感じたこと** ……2005/10/08…
**贛州旅行で感じたこと**

中国人口の多さ。 豊かなホスト精神。 中国の光と影。このようなことを旅で感じた。人口13億。どこを歩いても、「今日は何の祭り?」と勘違いするほどの人の多さ。

中国以外の国、例えば東南アジア、アメリカ、ヨーロッパで暮らす中国系の人口を加えると15億を超えるだろう。地球上の4人に一人は中国人(系)ということになる。 


 また、中国人はホスト精神に長けている。精一杯お世話するという気持ちがよく伝わる。乗り物で席を譲る、食事で取り回し皿から『食べて!、食べて!』とついでくれる。お茶を飲んで空にすると、すぐ注ぎ足してくれる。相手の所作に気を遣う。

**中国の光の部分** 
向こう5年、10年のうちに、高度経済成長を遂げるだろう。理由は、安い人件費、手の器用さ、外国企業の受け入れ態勢。米国をも抜かす勢い。

**影の部分**
公害、環境汚染、貧富の差は影の部分である。日本が高度成長期に歩いてきた道。日本への影響も避けられない。地理的に日本の西にあたる中国の環境はたちまち日本に影響する。

煤煙、酸性雨、海洋汚染は季節風と海流によって間違いなく日本へ。『雲仙大変、肥後迷惑』である。

次に、若者たちの考え方に疑念を持つ。大学生になりたい職業を聞けば、高収入、かっこよさ、きつくない、汚くないの3K職業を列挙する。日本では同様の指向で若者のニート、フリーターがはやっているのと同じ。

汗を流す価値が分かっていないようである。中国で大切なことは農業、水産業、環境保全であり、汗を伴う職業を有意義とすることである。

写真:左、ホスト家紀珂さんの家族 右、高層建築は中国の経済発展の象徴?
* *誕生日**
……2005/10/14…

2005年10月12日(水)天気曇り

**72歳の誕生日**

「いつしかに 七十坂(ななそじさか)を超えにけり 神の恵みの み手に引かれて」  今日の気持ち、正直、こんな心境である。 

 父も祖父も72歳で天寿。72歳という年は自分にとって一つの関心ある通過点であった。この一年は祖父や父のように生涯を閉じる年なのか、祖父や父を越えて、まだ現世で何か任務があるのかが問われる年。

 ご計画は神のうちにあり、心穏やかにその道に従うことがベストだと思う。12干支を6回迎えたことになる。12歳(昭和20年)は父と共に九江に居り、腸パラチフスに罹り九死に一生を得て祖父がいる長崎県小浜諏訪の池に引き上げた。

 長崎原爆、終戦体験。次の12干支24歳(昭和32年)は神に捉えられ、大阪聖書学院へ進学。4年生のとき、卒業後は種子島で伝道することを決心した年。第3干支の36歳(昭和44年)、子ども5人に恵まれ、必死で学費の工面、教会牧会、幼稚園経営に励む。第4干支58歳、子供たちがそれぞれに進学し、卒業を迎えた安定期。

 基督幼稚園の園舎改築を終えた。第5干支は60歳、明朗幼稚園の改築、藍綬褒章を受けた。定年を迎え、少しずつ権限委譲をする。第6干支は72歳、わかくさ保育園に関与、その後九江で日中友好活動継続中。

振り返れば、自分の人生は誠に喜びと豊かさを実感する充実したものであった。自分がこうなりたいと願ったことがすべてかなえられた人生であった。これを可能にしたものは何か。キリストを信じ、その導きと加護の中でなされた神のみ業であったと想う。

子ども5人、孫9人合計19人が池田公榮と久子から生み出された大きな宝。この信仰の遺産を子どもたち、孫たちに継承して欲しい。そんなことで、今年の誕生日はひときわ意義深い。

**誕生祝**

学生の呉越・高雅令・叶小江の3名、どこで知ったのかバースデーケーキを携えて祝いに来参。彼女たちの心遣いに感謝。

* *交流会** ……2005/10/14…

**交流会**

 毎週木曜日夜は日本語科生徒と教師の交流会を持っている。9月から仲間に加わってくださった井村嘉男先生を含め、日本人は小生と妻と3名で対応。学生たちは日本の風俗習慣、食べ物、富士山などのことについてよく質問する。

この交流会は授業で得られない学習の場ともなっている。
折りよく、九江市と友好都市盟約を結んでいる奈良県大和高田市の樫根会長さん一行も参加してくださった。

写真:交流会風景 中:参加者スナップ 右:樫根会長さん 


* *書法(書道)について**
……2005/10/22…

**書法教室参加**

九江・大和高田市友好交流事業の一環である中国書法(日本では書道)の講義を来九の皆さんと共に聴講した。とても興味深かったのでその概要を記す。
1、書法の歴史

 @中国周時代の甲骨文字(亀の甲羅や動物の骨片に絵記号らしきものを刻む)、金文(陶片に絵記号らしきものを刻む)に始まる。
 A秦時代に一定の法則性を持たせ、意味を持つ文字として整理されたものが篆書(てんしょ)同一企画で統一、漢代において隷書(れいしょ)となる。
 B宋時代になり、楷書、行書、草書(日本のひら仮名は草書の一種)となる。

2、書の名家 漢代:ウオシャンシ親子。宋代:節東波スートンホー、黄庭賢ホアンテインセン、未芾(草カンムリに市)ミーフーなど、元代:蔡シアン?
 明代:文征明ウンチョンミン 沈周センチヨ、唐伯シン(タンバイシン)、王鐸ワントウ(日本に一番影響を及ぼした人物)
 清代:テンシュウロウ、何紹基チンドンシン、金冬心チェンバイシャ  

3、名作 蘭亭(余と又):ランデシャは最も有名

4、理論の確立 漢字は絵であり、絵画的要素と意思伝達手段としての文字を兼備する。

5、漢字の伝播 中国全域は勿論、東南アジア、朝鮮、日本へ。

6、書の基本 
技法(チーファ)点、横線 縦線 払いなどの組み合わせ。運筆蔵鐸 落、収、平、回、釣 等の筆使いがある。又 
  垂露、蔵、平、回などの用法もある。
  文字の三要素として点、結、章がある。

7、書具 
硯、墨(現在では専門家も墨汁使用)
  筆にアライグマの毛、野犬の毛、アナグマの毛、鹿、いたち、羊、山羊、羽毛、胎髪(赤児の誕生時の頭の毛)などを使う。胎髪は生年月日と名前を刻んで誕生記念として保存するのが普通らしい。
  以上、聞き取れなかったところや、誤字が多くあることをお許しください。

写真:崔教授の講義、  受講生と崔教授
   文字の成り立ち

* 廃品はない?
……2005/10/22…

**九江のゴミ事情**

 九江のゴミ事情を紹介しよう。九江では、日本のように粗大ゴミがない。家具、家電製品、自転車など修理できるものは徹底して修理して使う、修理が効かなくなったら廃品業者に有料で引き取ってもらう。

 持参者が払うのでなく、引き取る人が金を払ってくれる。業者は引き取った廃品をまとめ、分別し、品種ごとに必要とする専門の業者へ転売して利益をあげる。例えば鉄くずだと製鉄関係の業者が引き取り、製鉄の原料としてリサイクルされる。

 持参する人も、引き取った人も利益を生むから、放置がない。衣類、紙類、プラスチック類、ペットポトル類も同様で、ポイ捨ての人もいるにはいるが、これらが道路や公園に落ちていたら、すぐ回収する人が待ち構えている状態。では、どこもきれいかというと、そうとは限らない。

金にならないものは、平気で放置してある。例えば、手間賃が出な いような小さくなった紙くず、ビニール袋の切れ端、小さい菓子包装紙、果物の皮などが散れたままになっている。

これらのゴミは、道路を竹箒で掃く選任の人がいて、街路樹の落ち葉とともに、朝夕よく掃除をしているので通りは小奇麗であるが、住宅地の隅っこなど、目の届かぬところは散れている。

そのうち、日本のように、吸引車が出てきてサーッと掃除してしまうようになると掃除夫(婦)の失業につながるかも。余計な心配かな?
 写真説明:回収業者の看板   九江には修理専門店が多い 

 家屋を解体したら、鉄筋、レンガを分類し再利用する


* 友好都市大和高田市*
……2005/10/22…

**九江・大和高田市友好都市盟約の皆さん来九**

樫根会長さん始め、木村さん(以上男性)、羽山さん、豊島さん、長野さん、津本さん(以上女性)6名の方が九江へ。ご一行、16日に関空を立ち、その日のうちに九江着。今回で第10回目の交流行事だそうである。

本日17日、わが師専校区を訪問し、拙宅にもお立ち寄りくださり、しばしの交わりを持った。そのあと、芸術学部で中国の伝統楽器を使った演奏を鑑賞する。

写真:今年は樫根会長ほか5名の來九
   芸術教室で中国伝統楽器による古典演奏鑑賞
右:9月から教壇に立たれている井村嘉男先生
* **改めて九江市紹介**
……2005/10/23…

**改めて九江市紹介**

東経115度、北緯30度方面に位置し、年平均温度は16〜20度、降水量は1300〜1900ミリ。北に長江(揚子江)と隣接し、古来より、華南物流の中心地であった。

南に世界自然遺産の廬山を控え、東には中国3大淡水湖の鄱陽湖(プーヤンホー)があり、淡水植物、淡水魚の宝庫。省都南昌まで列車で2時間、高速で1時間半。

その歴史は地形的、戦略的位置から古くは春秋時代にさかのぼり、春秋・三国志の戦場の舞台ともなった。かの有名な赤壁の古戦場もすく近くにある。九江を代表する古代の建造物に甘とう湖に上浮かぶ煙水亭と呼ばれる建造物があり、現在は博物館となっている。

第2次世界大戦終了の1945年までは日本国際協力団体(今日のNGO的団体)経営の九江同仁会病院、日本企業系の台湾銀行九江支店もあり、中日交流も盛んであった。

現代の九江は人口450万人を抱え、近々に500万人を目指して、急ピッチで都市つくりを推進している。現在道路拡張、建築ラッシュ。日本との合弁企業(スズキ自動車)があり、主にエンジンを生産している。

また、九江学院(生徒3.3万人)をはじめ、技術大学や商業大学等もある。昔から揚子江を利用しての物流の拠点であったため、今日も流通、貿易が盛んで、外国貿易の窓口があるほどである。日本のODAで発電所が建設され、この地方の電力をまかなっている。


地形的には、平地も多く米作、綿花、生鮮野菜を主として栽培し、物価が安くて生活しやすい。最近は(2005年9月を期して)、露天商売を禁止したり、交通ルールの遵守にやたらとうるさくなり、近代化に向けて進んでいるようである。反面、中国らしいのんびり、ゆったりの雰囲気がうせつつある。


少し足を伸ばせば、武漢、長沙、南京、広州、アモイ、香港等へも行けて、江南の臍といえる。

写真:江西省九江市潯陽師専校区付近
   いたるところ、古い建物を壊し新築のビルができる
 *幼稚園でも神舟六号祝福
……2005/10/23…
**幼稚園**

2005年10月14日:高雅令・呉越学生の通訳の応援で九江市中心幼稚園へ。新5歳児に日本の挨拶の歌を教え、指遊びゲームをする。昨年度も一度会ったことがある園児たちなので、教室へ入ると、「こんにちは(ニーハオ)、おじいさん(イエイエ)、おばあさん(ナイナイ)」といって迎えてくれる。

この子達が30年後は中国を背負う人になるんだとささやかな日中友好活動に誇りを持つ。折しも、神舟六号打ち上げ成功の新聞切抜きが園の壁新聞に掲示してあった。
打ち上げ成功、中国人にとってうれしいニュースであるに違いない。
 
写真:神舟六号(衛星)に新聞記事(江西省九江市潯陽晩報より)
* 石積みの文化
……2005/10/26…
**石積の文化**

九江では至る所に石積の塀や壁を見ることができる。さまざまな形の石をモザイク模様に組み合わせ、ほぼ垂直に積み上げる。レンガの塀や壁もあるにはあるが、やはり石積みのものが重層感があってよい。この技術の歴史は古く、少なくとも紀元1世紀には確立していただろうと考える。塀、城壁、砂防、棚田、堤防等に生かされている。

この技術は日本にも影響を与えている。縄文時代から弥生時代に生活様式が変わるなかで、中国・韓国からの移住民が、この石積の技術を持ち込み、山岳地帯にまで勾配のある土地に石を積んで棚田を作った。この技術が持ち込まれたことによって、日本の稲作は急速に耕作面積を拡大したと思う。

日本でも、今日のセメント技術が導入されるまでは、石垣、城壁、堤防、堤、棚田、古墳墓などに石積みの技術が利用されていて、その遺構はいたるところに今尚散在している。

また、赤レンガは中国になくてならない建材であり、塀、部屋の間仕切り、倉庫などに使用する。レンガつくりは当地では需要の多い安定産業で個人でも簡単に出来る。

写真:モザイク模様で垂直な石積塀   
   標準的なレンガの塀(日本のセメントブロック的存在)
* 日本語学科生との交流会
……2005/10/28…
大和高田市の方々も参加しての交流会は盛会でした。

写真:樫根会長、井村先生、池田久子
* 日本語科学生とのスナップ続き
……2005/10/28…
2005年10月27日九江学院内で大和高田市の友好メンバーを迎えて交流会が開開かれた。
 大和高田市からの参加は6名であったが、内四名は九江学院に滞在し(6ケ月から3週間)中国文化の学習をされることになった。

写真:左から参加者スナップ、木村さん、津本さん

* 希望者が九江で暮らすには?*
……2005/10/29…

2005・10・29
**九江で楽しく暮らしていただくプロゼクト**


高田.九江友好会会長の樫根氏、木村氏、九江在住の菅谷氏、九江人民政府外事僑瓣公室の宇(カンムリ無し)紅(ウコウ)氏、それに池田の5名、表題について以下の通り話し合う。趣旨は「日本人が九江で楽しく生活できる可能性」があるかどうかということ。小生は実際九江で一年以上暮らしてみて、常々、日本の退職者、年金生活者が九江市で暮らす可能性が大いにあると気づき、その実現を願っていたところである。

T、対象として考えられる日本人として

 @、定年後を九江で過してみたい人(中国が好き、中国で  生まれた、育ったなどで中国に住みたい人)

 A、年金生活を九江で過したい人

 B、持てる技術を中国で発揮したい人。技術者がそのまま埋もれるのはもったいないこと、中国でボランテイアとして特技を生かすことを望む人は中国人からも歓迎されるだろう。

 C、九江で学生生活をしたい人。いまや、学び舎は世界。最近、日本からの中国留学生は増えつつある。交換留学等の制度を民間デベルで進めるべきだろう。

 D、中国各地を旅行する一時的拠点としたい人等。旅行者のメニューに従った短期間の駆け足旅行より、現地に滞在し、ゆったりと中国各地を現地人との付き合いの中で楽しむのはどうだろう。

 E、学術研究の拠点としたい人。日本文化と中国の接点、漢字、茶、稲作、文化人類学等研究すべき課題は多いはず。従来の定説が覆されるかもしれない。

U、九江を薦めたい理由 

 @、生活費が安い。日本の10分の1の物価、生活費。従って日本の5万円は中国では50万円に匹敵する。年金生活者も中国でなら悠々自適。

 A、気候が温暖で、日本の九州と同じ。

 B、比較的日本に近い。日本への帰国は日帰りコースも可能。海空便あり。
 C、安全が期待できる等。日本人集落をつくり、安全に暮らせる。特に、九江学院の学生または教師待遇ならば超安全。

V、今後の展開

 @、上記条件を満たすための、調査、研究を継続する。事務局を日本に、現地事務所を九江においてプロゼクト推進を図る。ウコウ氏も関係機関と連携をとって協力しましょうと言ってくれる。菅谷氏は中国在住の日本人、実業家としてアドバイスにのってくださるだろう。
 A、当面は、HP等で関連情報を流す。

附記、 
人物紹介
  樫根会長 高田・九江友好会会長。両市の18年に及ぶ友好交流事業に携わり、何回となく九江を訪れるなかで、「九江に日本人集落を作って学生の交換 留学制度策定」への情熱の持ち主。2005年度はその第1期生を引き連れ、現在九江学院に滞在し学生と交流をもっておられる。

  宇(ウ冠無し)紅氏、現在九江人民政府外事僑瓣公室の 職員。外事一般を取り仕切る。以前は九江学院にも関係、日本の栃木県国際交流課勤務経験。
 九江・大和高田市友好事業に関与。本人は日中両国に実 際に生活し、国際感覚を身につけておられる。氏は、日本人が九江で生活することの可能性を積極的に支援したい人。横浜、神戸、長崎にチャイナタウン(中国人街)が あるように、日本人街(集落)を作ればよいと考える。
    
  菅谷氏、九江で建材関係の事業のかたわら、九江学院に請われて、日本語科教師を勤める。氏は日本人が九江で生活できる可能性を最も推進したい人の一人。有志による日本人向け住宅を作り、そこで集落を作り生活するなどの構想の持ち主。

写真:池田宿舎で話がはずむ
* 九江の医療 ……2005/10/30…
**医療**
 九江の1940年代は衛生状況が悪く、疫病等の蔓延が多かった。小生幼少のころ、チフスで弟を失い、自身も腸パラチフスという病に罹り九死に一生を得た。天然痘も大流行したし、ハンセン氏病も流行っていた。

**同仁会病院**
当時、今日いうところのNGO的医療団体同仁会病院が日本人によって経営されていた。九江の場合は今の熊本大学医学部(昔熊本医専といった)の関与で同仁会病院が運営されていた。同病院は中国12の都市に設立され、在留邦人の治療と同時に中国現地人の医療をも行い多大の貢献をなした。同人会の理念として、医療を通じ、中国人の民生の安定をはかり、合わせて、近代西欧医療に精通せる現地スタッフの養成を目標としていた。終戦とともに施設は撤収されて、日本人スタッフは全員引き上げた経緯がある。

**今日の九江の医療**
 今日の九江は、当時とすれば雲泥の差で、医療施設が実によく整っている。医療従事者も医師を始め、看護師や検査員も多い。九江学院にも医学部、看護学部があり、多くの医療技術者を輩出し、各施設で活躍している。近代医療設備ももちろん整っている。入院できる大病院(ベッド数の多い意味)から、「診所」の看板を掲げた個人診療所もあり、多様。

 歯科は「牙科」と表現が違う。設備等は日本と同じ。歯の矯正をしている人もよく見かける。
 
 薬局は特に多い。漢方薬他の薬品を扱っている。症状によって薬剤師が薬を調合してくれる。
 
 70歳以上の老人には医療費全額免除の制度があり、日本人小生もその恩恵に与っている。感謝!

写真:九江博愛問診部 問診を主とし、治療、加療は別部門 美容整形部門 縁ャさな診療所(性病)

* 遊び大好きな九江人 ……2005/10/30…
 九江人は遊びが好きなようだ。往来の木陰、店先、クラブなどでマージャン、カード、中国将棋、囲碁などで楽しんでいる。店番そっちのけで遊びに興じており、たまには店のお客を無視して遊びに集中している。

**中国将棋**
「一局指しましょか!」「いいね」すぐ意気投合して盤面へ集中。それを取り巻いてみている人もおり、岡目八目で口を挟んでいる人もいる。

**マージャン**
 老若男女を問わず、幅広い愛好者。やはり、ある程度金を掛けないと面白くないようだ。盤上には小銭が置いてある。

**カード**
 トランプ・かーどでやはりお金を掛けて遊んでいる。
* 種子島の宣伝を少し* ……2005/10/31…
2005年10月31日(月)天気晴れ
**10月もおわり**
中国の10月は1年でもっとも喜ばしい月であろう。1日は建国記念(国慶節)、収穫の秋、秋本番。旅行をするには最適の季節。いたるところ秋の花が咲き心和む。菊、マリーゴールド、ケイトウ、サルビアなどが色鮮やかに咲いている。モクセイの香りが漂い、いい気持ちにしてくれる。若者たちのくったくのない笑顔に囲まれ、充実した毎日であった。

**種子島の宣伝を少し、特に種子島国産銃のこと**
種子島は、九州本土最南端の佐多岬から南東方向約40km・鹿児島市から約115kmの海上にあります。一般に山地・台地が多く,海抜は最高282.3mです。種子島の面積は,453.83 kuで日本の有人離島の中では5番目に大きな島となっています。

(架橋により本土との往来が可能な島は除く)島は一市ニ町からなっており、人口は約4万人です。周囲は海で囲まれ、平均気温は摂氏19.3度で,すこぶる温暖です。5月から10月までは月平均気温が20度を超え,夏の期間が長いです。真夏の日照は強いですが,常に快い海風が吹いていますので日中の暑さは九州本土と変わらないくらいで,むしろ涼しいくらいです。一方冬の気温は10度から14度であり,日の最低でも0度を下回ることはほとんどありません。

年間降水量は2,000mm前後で3月から9月の期間が比較的に多雨です。梅雨は5月末頃に入り7月初めごろ明けます。台風は,年に4〜5回8月から10月にかけて来襲します。また,冬期には季節風により北西の風が強くなります。このように,本市の気候は温暖気候に近い亜熱帯性気候ですが,宿命ともいえる台風常襲地帯に当たるので,農作物の被る影響も大きくなっています。
 
 歴史については古くから日本本土と琉球・中国・東南アジア・インド・西欧等との海の道で結ばれ、交易の接点として重要な役割を果たしてきました。特に、1543年(天文年間)島に漂着した中国のジャンク船にポルトガルの商人が乗船しており、持参した鉄砲の威力に驚いた島主種子島時尭(トキタカ)公は大枚2000両で2丁の鉄砲を買い上げ、刀鍛冶の八板金兵衛に申し付け模作を試み、艱難辛苦の後、完成します。

やがて、鉄砲は国内で量産され、戦国時代を平定に導く役割を果たします。その影には、金兵衛の娘若狭(わかさ)の悲恋物語もあります。2006年2月4日、この若狭悲恋物語の本格オペラが現地で上演されることになりました。音楽愛好家の皆さん、歴史研究家の皆さん、このオペラを種子島で鑑賞し、あわせて種子島の風物に接してください。 
 池田公榮はこの種子島で42年間牧師、園長として過した大切な第2の故郷です。
詳しくはwww.city.nishinoomote.kagoshima.jp

写真:オペラ若狭物語のポスターほか、種子島地図とか
* 個別学習指導* ……2005/10/31…
2005年12月4日、日本語能力検定試験に向かって学生たちは一生懸命。時には夜間個別指導を行うこともある。2級、1級も目指して猛勉強。取得した級によって就職・待遇にもろに跳ね返ってくるので学生にとっても必死。