池田公栄・九江学院日本語教師日記 7
平成18年1月1日〜2月31日
虹の架け橋
* *忘年会** ……2006/01/02…
*学生主催の忘年会に招かれる*

301クラス(2003年入学生第1クラス)学生の案内で、街のレストランで鍋料理の馳走に預かる。生徒たちの企画で、関係した教師たちは全員招待をうけた。テーブルを囲んで暖かい鍋をつつき、しばし歓談のときをもつ。生徒たちにとっては、就職活動か控えており、大変な気分と思うのだが、みなはしゃぎながらの歓談であった。

*カラオケでちょっぴりのどを*
302クラス(2003年入学生第2クラス)学生の案内で、昨日に引き続き忘年会。中国料理で時を過ごし、引き続きカラオケに誘われる。九江でもカラオケがはやっており、若い学生たちでいっぱい。この点、日本と変わらない。選曲はパソコンで瞬時にでき、日本のうたもかなりある。小生も請われて「昴」「二人の愛」を歌った。授業ではパットしない学生が俄然リーダーシプを発揮している場面も見られ、人さまざまだなあと感心する。

* 武漢での正月 ……2006/01/02…
*武漢へ出立*
2005・12・30 

計画していた武漢旅行を実行。午後6時32分九江始発に汽車(中国では火車という)で武漢へ。われわれ夫婦と同僚フ日本語教師井村師それに通訳をしてくれる呉越学生の四人旅である。
列車は定刻に発車し、まもなく先の11・26地震の震源地瑞昌を通り抜け、四人が懇談している間に、2時間40分後の9時5分、武昌駅に着く。早速タクシーを拾い宿舎に着く。宿舎は桂宛というホテル。このホテルは現在中華師範大学の王先生のご主人があらかじめ予約してくれていたもので、着いてみると、とても立派な学園内ホテルであった。王先生のご主人の交渉で半額にしていただく。まずは安着を感謝し、眠りに付く。

**武漢旅行記**
2005・12・31
@ 宿泊のホテルのことなど。桂宛賓館といい、学園ないにあるホテル。上海の中級以上のホテル並み。当ホテルは学校関係者、留学生、保護者が宿泊できるとても格安で便利なそして安全なホテルである。この大学では外国人留学生を多数受け入れているのには驚いた。日本人もいるとのことで、ぜひ面会をと望んだが、学校の管理規定で断られた。安全面からの配慮だという。小生の知る知人の子弟が上海に学んでいることは知っていたが、こんな内陸部にまでも日本人学生がいたなんて思いもかけていなかった。まさに、国際時代。政冷涼経の日中関係ではあるが、一方で、学術を通して交流があることに強い満足と期待感をもつ。

A 東湖(トンフー)周辺の観光。
武漢有数の景観地。周囲20キロ以上の湖を人口陸地を作り、植林している。山頂から眺める景色は『天の橋立』を想起させる。まずは江南第四楼と呼ばれる「楚天台」へ。ここは、紀元前2世紀、中国春秋戦国時代の一国楚の遺跡をもとに復元された古代文物の収集と展示館。館内を一巡し、古代中国の服装よろしく中国古代楽器のひとつ、八音楽器で、中国の曲を奏でてくれた。気分はすっかり中国情緒に浸り、心地よく思っているところ、 最後の曲がベート−ベンの第9演奏と相成った。多少の違和感を感じつつも、年末のサービースと受け止め、拍手をおくる。劉備の雨乞いの祈願がなされたという頂上には、祈願が聞かれることにあやかって、多くの善男善女の祈りを書き込んだ錠が結ばれていた。

B 田舎料理で昼食。たかなの漬物を魚の煮込みに入れてあり、いかにも田舎風の味で美味しかった。5名分で35元でとても安い。

C 食事のあと、毛沢東が晩年をすごした家屋を訪れる。わりと、質素な家屋であり、彼の晩年の生活ぶりも見えてくる。決して贅沢な生活をしたとは考えられない。

**武漢での主日**
2006・1・1
 
 武漢旅行が主日に当たってしまい、教会礼拝に参加できなかった。このような場合は、家庭礼拝によって、神を賛美し、祈り、聖書を読む。今日のみ言葉は
創世記1章27,28節
「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』・・」

 人は神の創造によって成った者であり、地を良好に管理するよう定められた。だが、人は与えられた選択権を自己中心のために誤用し、人同士の殺し合いと自然破壊を行った。本来祝福されるべき人類は自ら不幸と破壊を選んでしまった。それでも神は人類の再創造を試み、神の子、イエス・キリストを受肉させ、十字架によって人の負債を清算された。再び完成するであろう新しい国を父は子と聖霊と、与えられた自由意志を正しく行使することのできる民とともに、即ち、悔い改めて神に従う民とともに創造される。

**新年快楽**
 2006年。それは、また一歩、神の国の完成に近づく年。神に栄光・地に平和。現在多面にわたる困難に直面しているすべての人に、平和と喜びがありますように。とくに、幼子と老人を顧みてくださいますように。

**武漢旅行記**

*改めて武漢市紹介*
 東経108度北緯30度方面にあり、中国内陸部に位置し、長江と漢江が合流した位置で、1949年、武昌、漢口、漢陽の三地区を合併してできた市。その歴史は古く、三国志の舞台、漢、唐,宋、元、明、清王朝を経、辛亥革命発祥の地である。古来より、水陸交通の要衝であり、冶金,機械、繊維、電子、化学、食料の産地、かつ武漢鉄鋼公司を抱える。

*黄鶴楼*
現在の楼は五層で近年に改築されたもの。歴史は古く、清朝、明朝、元、宋、唐、隋にまでさかのぼり、戦いの度に焼失し、建て替えられている。

*毛家壮で昼食*
 辛亥革命の最初の一発が放たれた首議園かいわいは革命服をまとったウェイターが給仕をしてくれる。ここで、革命家たちが食したであろう食に与る。

*そして帰路へ* 
午後1時半、早めの漢口駅につき、車中の人となる。往路は夜間のため見れなかった江南の田舎をたっぷり眺めながら九江駅に午後5時10分到着。好い旅であった。ついてみると、何かしら我が家に着いたようなホットした気分となり、ここが異国の九江であることを忘れてしまう。人間は本来、住んでいるところに順応する力を持っているのではないかと思う。

写真説明左:霧にかすむ武漢の教会
    中:黄鶴楼の建立記事と模型
    右:革命軍服をまとったウェイター嬢と中央は      通訳のため同行してくれた日本語学科の呉越学生
 

* *武漢旅行A** ……2006/01/02…
*楚の文明
楚は春秋戦国時代(紀元前771〜紀元前221年)に中国南方で強大な勢力を持った国。北は斉・韓・宋に接し、西は秦に接し、戦国一広大な領地を有した。その勢力圏は今の湖南省・湖北省・江西省の一部と考えられる。楚の都は最初は郢(えい:現在の江陵)、後に秦の侵略に耐え切れず寿春(現在の淮南)に移った。王族の姓は熊(ゆう)、祖先は三国志演義で有名になった祝融氏。(伝説)また楚は強兵を生むところで、楚の荘王は天下の諸侯に号令する覇者になった。BC221年、秦が中国を始めて統一し、楚もその支配下にいる。秦の滅亡後は再び戦国の世となり、三国志の舞台となり、小説の題材に事欠かない。項羽と劉邦の戦いから生まれた「四面楚歌」の成語も当時の逸話から生まれた。興味深いことに、戦国時代の難を逃れてであろうか、一部の人は、日本の渡来人となり、弥生文化に深く関わったという説がわが弥生期の故事に垣間見られる。特にわが鹿児島弁に関係があるから面白い。
 
 以下塚田敬章氏のHP「弥生の興亡」から引用させていただく。「楚の古典文学、屈原の「楚辞」は、兮(ケイ)という語を多用していることに特徴があります。兮は句調を整えたり、感情を表わす間投詞として用いられるもので、項羽が劉邦の漢軍に包囲されたとき歌った、有名な「抜山蓋世」の詩にも含まれています。ついでに音も記しておきます。(但し呉音)・・中略・・ 「大隅肝属郡方言集(*)」の一部を引用します。ここは曽於と呼ばれた土地です。 《*/柳田国男編、野村伝四著、国書刊行会》

  「ケイ  動詞の下につける助詞。気取った人が往々使う。
         ユタケイ……言ったんだ。 キタケイ……来たんだ。
         スルケイ……するんだ。                 」

 これは、おそらく、語調を整える兮でしょう。このケイが転訛してケンやケ、カになり、「やるケンね」などと、現在でも面白おかしく使用されているのではないでしょうか。」以上引用。

*辛亥革命成功の地
孫文を中心に進められた清朝打倒作戦は何回も失敗した。しかし、ときいたって、1911年ここ武漢において、清朝側守備兵らの革命側への寝返りもあり、ついに成功。米国にいた孫文は急遽、帰国し、初代大統領となる。ここに2000年続いた、王朝体制は終わり、新しい中国の出発となる。武漢には孫文関係の資料博物館があり、その前庭には国父孫文の立像が建立されている。

 「明治維新は中国革命の第一歩である」そして、「中国革命は明治維新の第二歩である」と、1924年11月1日、孫中山が最後に日本を訪れ、神戸の帰りに長崎で新聞記者に語ったといわれている。


写真:貴重な写真があったのに、パソコンのストライキで失ってしまいました。機会があれば、再び武漢へ行き、撮影してきます。

* *卒論** ……2006/01/03…

 学生たちにとって、卒論は最後のハードル。テーマ決定、提言、資料収集、論理の展開、結論とまとめる作業。4000字以上の論文にまとめる。提出期限は1月5日までとなっている。担当教師の添削をもらったら、パソコンで仕上げるよう義務付けられている。
 日本語科の生徒は勿論日本語で書き上げなければならない。このところ、自分のパソコンを持っていない学生が、毎日小生のパソコンを借用に来る。
* *帰国の途へ** ……2006/01/13…
**学生たちに見送られて
2006年1月6日13時30分。学院差し向けの車で南昌空港へ。出立にあたって、多くの学生たちが見送ってくれる。2年間のご縁を心から感謝する。また、九江市で国際交流関係の仕事に携わっておられる宇紅さんもわざわざ見送りにきてくださった。とても義理堅い人。南昌までは呉越学生も同行してくれた。南昌空港で約1時間の時間待ちのあと、17時25分、中国東方航空UM5568便機上人となる。

**空は青い**
機が上昇をし、一定の高度に達すると、空の色が一変する。ある一線を境に上は澄みきった青、下は黒褐色。上の青は透けて見え、清らかさを感じるが、下の黒褐色は視界を封じ下界を覗くこともできない。それだけ、中国の空は煤煙等で汚染されているのだろう。この清い空と汚れた空との境界線をこれ以上高めてはならない。

**上海泊まり**
 上海は虹橋国内線空港に降り立ち、すぐ近くの上海国際机場賓館に投宿。このホテルは日本語を解する職員が常時対応し、食事も日本料理を出してくれる。バストイレ付で朝食、浦東国際空港までの無料バスを出してくれるのでとても便利。一人一泊朝食付き410元(約6000円で日本のビジネスホテル並)。
* 帰国の途* ……2006/01/13…
**浦東空港で中原理恵さんと再会**
2006年1月7日。上海国際机上賓館で6時起床。バイキングによる朝食を済ませ、チェックアウト後、午前6時50分、ホテル差し回しのリムジンバスに乗り込み、上海国際空港浦東机場へ。机場には午前8時に到着。早速搭乗手続き、手荷物委託手続きを済ませ、最後が出国手続きを済ませると、後は搭乗口待合所で出発時間までを待つことになる。また、ここで免税品のみやげ物を買ったりもできる。
 
 浦東国際空港待合ゲートで湖南省長沙市で日本語を教えている中原理恵さんに会う。中原さんは宮之城のひと。小生の川内高校時代の後輩でもある。年は、孫と爺くらいの開き。「長沙では、よく学生と間違えられたんです。」と言っておられた。しかし、彼女の中に秘められた情熱は並みのものではなく、単身で、初めての長沙に赴くだけでもたいしたもの。感心させられることしきり。勇気もあり、実行力もある人みたい。
 
 中国東方航空上海発鹿児島便MU761便は25分遅れで浦東を飛び立った。機は一直線に長崎県五島上空に向かう。そこから右折して鹿児島空港へ。あいにく雲が多くて下界が見えない。ほとんど雲の上を飛んでおり、雲団がまるで地図の上を飛んでいるような気分にさせてくれる。盛り上がった部分あり、谷間あり、裂け目あり。これも気流の力によってできる現象だろうなと思いつつ、ふと地球の表面も地底のマグマ運動の力によって山や裂け目や海溝ができるのだろうと考えるうちに、機は日本時間12時50分、予定より25分遅れで鹿児島空港へ着陸。かくて、なつかしの鹿児島人となる。

 夜は、鹿児島キリスト教会に泊めてもらい、翌日の日曜礼拝に出席することにした。

写真:浦東国際空港で再会した中原さん
   地球の神秘を思わせる雲団
   鹿児島空港の足湯「いい湯だね〜♫」
* わが故郷鹿児島* ……2006/01/13…
**錦江湾から眺むれば**
鹿児島は太古において火山の大爆発を起こし、姶良カルデラを形成した。錦江湾はそのときの火口といわれる。錦江湾上から東西南北を眺めるとすべらしい景観に目を奪われます。鹿児島よいとこ、一度はおいで!!

写真:東に櫻島、東北に市街地、南に半島、西に薩摩半島。日没もきれいです。

* 故郷鹿児島 ……2006/01/13…
鹿児島は海も空もまだきれい。これからの課題は「より美しく保存し、豊かな自然遺産を子孫たちへ残すこと」ではないだろうか。
* 鉄砲伝来にまつわる悲恋物語* ……2006/02/19…
歌劇「若狭」の種子島公演。2006年2月4日 中種子町コリーナにおいて実行。地元紙は「鉄砲伝来にまつわる悲恋物語を題材にした歌劇「若狭」の“里帰り”」と報じた。田上容正さんを実行委員長とし、県文化課協賛の形で実現した。当日は天候も絶好で、オーケストラやアンサンブルなど総勢82名の出演であり、地もとの小中高校生には無料でリハーサルを参観でき、本番は1300人ほどの入場で立見がでるほど。

概要:

第1幕 1543(天文12)年8月種子島南端門倉岬浜に一隻の遭難船が打ち寄せられた。同乗していた中国人と島の長者は砂の上の筆談で、この難破船はポルトガル商人を乗せた貿易船であることを知り、西北海岸赤尾木の港へ曳航する。

第2幕 刀鍛治の八板金兵衛の娘若狭と島主種子島時尭(ときたか)の家臣笹川小四郎はともに相慕う中。二人が愛を誓い合っているとき、難破船一行をもてなす歓迎の宴で若狭の舞を披露することになった知らせが入る。

第3幕 島主時尭と重鎮たちはポルトガル人の歓迎の宴を催す。余興で若狭の舞が疲労さる。ポルトガル人のピントはこの美しい娘に見惚れ、時尭に感謝する。時尭は鉄砲の威力を実演してもらいたいとピントに頼む。ピントは快く引き受け鳥を狙い撃つ。一同はその鉄砲の威力を讃える。

第4幕 若干17歳の島主時尭は鉄砲こそ戦国の世を収める武器となると、家臣たちに諮り、1丁2000両で買い取り、鉄砲の国産化をはかる計画を披露する。鉄砲の製造を刀鍛治の八板金兵衛に、火薬の製造を家臣笹川小四郎に申し付ける。

第5幕 金兵衛の仕事場。日夜鉄砲造りに励むが、筒底の塞ぎ方がわからない。当時日本には目ねじの技術がなかったからである。金兵衛、若狭、乳母、小四郎はピントに筒底の秘密を教えてくれるように頼むが、ピントは教える代わりに若狭を嫁にほしいという。

第6幕 1人途方にくれる若狭。そんなわかさを不憫に思う乳母。国のため殿のために若狭を手放さなければならない金兵衛と小四郎。葛藤の末、金兵衛と小四郎は若狭を諦めることを決意し若狭を説得する。4人は突然訪れた皮肉な定めを悲しく歌い上げる。

第7幕 神社の境内。小四郎は若狭を失った悲しみから逃れようと酒浸しになり、そのむなしい心情を訴える。そこへ完成した鉄砲をもった金兵衛現れる。一瞬正気を取り戻した小四郎は喜ぶ。村人や家臣たちも喜ぶ。しかし、この喜びの声とはうらはらに、鉄砲の代償として大切なものを失った小四郎は「若狭、若狭・・・」と悲痛な声を上げながら幕が下りる。

島を離れ、異国に嫁いだ若狭は次の句を残した。 月も日も 日本(やまと)の方ぞ なつかしや わが両親(ふた親)の あるとおもえば  若狭

写真:島に上陸した難破船の船乗りたちと村人たち もてなしのために舞う若狭 鉄砲伝来記念碑 
* 鉄砲伝来と戦国時代 ……2006/02/19…
若干16歳の種子島島主、時尭は鉄砲の国産化を考え、苦心の末成功する。出来上がった鉄砲は、橘屋又三郎により堺へ、津田監物により根来寺へと、またたくまに全国へ広がり、やがて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と新しい日本の時代が生まれる。

写真:時尭公が購入した初伝銃
鉄砲購入と製作決意した16歳島主時尭像
* 夕あり朝あり ……2006/02/21…
旧約聖書創世記には「夕あり、朝あり。これ一日なりき。」という表現がある。日本人の考えだと朝に始まり夕べに終わるのであるが、旧約聖書の世界(つまりユダヤ人)では夕べに始まり朝を迎えるわけである。ユダヤ民族4千年の歴史の中でつねに迫害と苦難の道をたどり、いまなおパレスチナ問題を抱えているイスラエルには心から平安を味わうゆとりなどなく、いつも食うか食われるかの戦いの連続だった。しかも、大国の支配は逃れがたく、常に暗夜の不安を持ち続けた。だが、彼らは決してあきらめることなく「明日は今日より希望がある」と念じつつ忍耐と努力と希望の日々である。「夜は夜もすがらなき悲しんでも、朝とともに喜びがくる。」聖書詩篇
 我々日本人もいつユダヤのような境遇に落ちるやも知れぬ。そのようなとき、「夕に始まり朝を迎える」思考習慣が必要になる。
「明日の来ない夜はない」吉川栄治 「雲の上は晴れている」犬飼道子 などの考え方もきっと同じだろうと思う。

写真左:冬の種子島西海岸の落日
写真右:冬の種子島の朝日

* *神の創造・万事善** ……2006/02/22…
**神が創られたものはすべてよし**
創世記によれば、神は天地を創造し、その生き物と人を創ったとある。神の創造は天地においてひとつも無駄なものはなく、互いに関係しながら調和を保っている。天地のことはすべて調和に向かって進んでいる。
自然は調和のために風を起こし、雨を降らせ、岩を削る。人と自然。人と人が調和すれば即天国完成。
 
 まず調和しなければならないのは人と神。人はアダム以来神に逆らってきた。まず自分が神との調和を図らなければならない。

写真: 鹿児島県開聞岳遠望と九州最南端佐多岬
* 被造物是良哉* ……2006/02/22…
**1月の種子島の花木**

モッコク:夏は緑葉で茂っているが、1月ごろ実が真っ 赤に熟れて人の目を楽しませてくれる。実を食べに メジロやヒヨドリなどの渡り鳥が飛来し、この眺め もまた楽しい。写真左

南天:庭木の一種。のど等の薬用にも鳴る。渡り鳥も 好んで食する。

水仙:球根多年草。冬の庭を白や黄で飾ってくれる。 寒に強く霜枯れもない。花は優しく人の心を癒して くれる。

拙句 種子島ゆ 海超えて来し 水仙香

* 被造物是良哉 ……2006/02/22…
種子島1月の花木

韮科の花:野生の韮にかわいい花が咲き、通る人の目を引く。

桜島大根:鹿児島空港の足湯のところに飾ってありま  した。湯に浸りながら、大きな大根を見るのも楽  しい。この大根食しておいしく。漬物は逸品。

菜の花:野生の菜の花がかわいくて。
* 被造物是良哉 ……2006/02/22…
子ども・高齢者そして私たち

こども:こどもは無限の可能性を秘めた神の作品。日 本を、世界をすばらしい天国に仕上げてくれるでし ょう。

高齢者:人生の荒波を乗り越え、酸いも甘いもわきま えた神の作品。子どもたちのよい指導者。提言者。 知恵袋。

私たち:働き盛り。建設者。調和者。感謝の日々を送 る者。自然と調和し、人と調和し、神と調和した  い。

* 三度九江へ* ……2006/02/22…
2006年2月11日(土)天気晴
**三度目の九江へ旅**
鹿児島空港13時30分MU762便で上海へ。長沙で日本語の教鞭をとっている中原理恵さんも虹橋空港近くのホテルまでは一緒だったが、宿泊する場所が互いに違っていたので彼女とは同国際机場ホテルで別れた。夜は国際空港賓館に投宿する。

2006年2月12日(日)天気晴
**南昌から九江へ**
虹橋国際九江9:50分発MU6155便で南昌へ。機中の人となり、妻と九江のことを話していると、隣席の中国人がきれいな日本語で話しかけてこられた。名は興徳さんという人。われわれが日本語を話していたので、興味を示されたのだろう。聞くと、彼は1980年代に10年ほど筑波大学で学び、主にヒトゲノムの研究をされたとか。現在はカリフォールニア州のある大学で同様の研究を続けており、在籍は南昌大学だそうである。最先端技術に関与しておられる人であった。今回は、家族を加州におき、単身で母校の南昌大学へ1週間ほどの用件で帰国されるところだった。話しているうちに機は南昌空港へ無事着陸。興さんの研究室の職員が迎えにきていた。われわれ二人の九江までの足を心配してくださり、南昌の高速バス停まで車を回してくださった。迎えに来た秘書の女性が手際よく切符の手配をしてくれ、ほとんど待ち時間なく、高速バスに乗り込むことができた。あとは九江まで一直線。2時間足らずで、見慣れた九江の市街地にはいり、無事宿舎に到着したのは午後3時すぎであった。いつもなら教会へ行く日であったが、旅の途中で、礼拝行為ができなかった。ホテルで、車中で主の御名を賛美した。

写真:住み慣れた九江

写真2:雪景色 2月18日の夜は今年九江で3度目の雪だったそうだ。三度目と書いたのは、1,2度の雪のときは日本に帰省していて見ていないからである。朝起きると、大学キャンパス内が銀色一色。地元の人の話ではこの地でこんなに雪が多いのは珍しいということであった。そういえば、昨年11月26日はM5.7の地震もあったし、珍しいことずくめである。

* 九江の正月* ……2006/02/22…
**九江の正月**
九江はいたるところ春節気分である。中国では正月のことを春節という。2006年度は陽暦1月29日が中国の正月。ここ中国では今も正月を陰暦で祝う習慣が今も続いている。陰暦は本来農耕と深い関りがあった。種まきの準備、種まき、施肥、刈取。これらの作業手順が陰暦の中に組み込まれている。日本でも田舎では今でも陰暦で正月を行うところもある。
 さて、中国の正月は1日から15日間祝う。この間、家族が集まり、親交を深め、健康と家内安全を祈願する。特に15日目は白い団子を食べ、家族中が集まる。これが終わるとそれぞれ仕事に就く。
 事実、買い物をしようにも、肝心の店が閉まっていて食料品などの買い物には不自由する。土地の人は心得たもので、歳末の間に必要なものすべてを調達し、二週間分保存しておく。魚や肉類は干物にして保存がきくようにする。
 12日、隣の王先生が、よい日に帰ってきました。今晩煙水亭周辺で、大掛かりな花火大会があるので見に行きましょうと誘ってくださった。好奇心もはたらいて後学のため出かけることにした。煙水亭周辺はすべて車輌進入禁止となり、人人人でごった返しの有様。多くの警察官と軍服を着た兵士たちが警備にあたっていた。
 定時に花火が上げられ始め、45分間不断の打ち上げである。大玉であり、夜空に広がる様は圧巻であるが、あまり変化がなくて、日本の花火のほうがきれいかなと思った。中国では何々節のつく日は花火と爆竹はつき物。都会地での爆竹は危険だからという理由で、最近禁止されていたが、住民の強い要望により、解禁になったとニュースで知った。

写真:正月気分の花文字・・春節という文字を花鉢で造形している。

写真中:警備のための兵士 開いているところは九江市の要人が通る道

写真右:ぼんぼり風の提灯がいたるところに下がっている
* 九江の正月* ……2006/02/22…
*九江の正月2*

写真:ごった返す花火見物人
写真中:警備中の兵士 空いたところを要人がとおる
写真右:夜空に開く花火
* 九江の正月* ……2006/02/22…
*九江の正月2*

写真:ごった返す花火見物人
写真中:警備中の兵士 空いたところを要人がとおる
写真右:夜空に開く花火
* *授業風景** ……2006/02/23…
**日本語学科生徒の授業**
日本語学科は小生が担当する生徒では1年生3学級計128名 2年生1学級38名を週8時間でこなすことになる。病気以外の欠席者はなく、すこぶる学習意欲旺盛な学生たちである。

今期からの授業はすべて本部キャンパスとなる。昨期までは師専校区といって九江市中心部に位置し、語学系中心のキャンパスが教場であったが、大学の機構改革により語学系は現在地に移転した。新教室は宿舎から徒歩20分。第五教学楼の6階である。階段は4階ぐらいで一休みしないと一気には上れない。自分では元気と信じているが、やはり年かなと思う。

会話の常用句は徹底的に暗記と繰り返しで身につけさせたい。授業の合間には日本から準備した日本の昔話を読み聞かせたり、童謡を歌ったりして気分転換も図りつつ、授業を面白いものにすべく工夫を凝らしている。