竹下先生の長沙日記2
2005/04/27

ダイエットは明日から


教材にすき焼きや寿司が出てきた時、学生に日本の醤油を見つけて来たら「私の宿舎ですき焼きのつくり方を実習しよう」と話していたところ、劉艶さんが崩臣路にある会員制の麦徳○商場から150グラム入り1本を10元で見つけてきた。

クラスを2班に分け、今日がその初日だ。昼食時間にケ・程・易さんの三人を連れて近くの商店街を回って、豚肉・卵・豆腐・砂糖・白菜・根深ネギ・春菊・人参・生シイタケ・もやしを買い揃えた。

料理を作るときは床に野菜屑が散乱するため、ついでに掃除用の棒雑巾を買ったところ、程さんが「私が持ちます」と何度も言ってくれた。しかし、嫁入り前の娘に持たすわけにはいかないと断わった。

中華なべを使ってのすき焼きは苦労の連続だった。水気は鍋の真ん中だけで、周囲は満たされないため焦げ始める。中華料理のようにかき混ぜると、野菜で形を成しているのはシイタケと人参だけ。さらに日本の醤油が足りなくなったので中国の醤油を加えたところ、食材が全部黒くなり、何が入っているのかわからない状態になった。

中国では生卵はお腹を壊すと信じている人が多いため、仕上げの段階で生卵を割って食材の上に乗せたところ、なかなか固まってくれない。中華なべは中心から離れるほど温度が低いのだ。

次は先のとがった中華なべをどのようにしてテーブルに乗せるかが問題になったが、大きなどんぶりに布巾を掛け、その上に載せるアイデアが出て事なきをえた。

中国では食べた料理を残すのがお客としての礼儀と聞いていたが全部食べてくれた。さらに、易さんが小さな緑色の豆と米を半々に混ぜたお粥を作ったところ、「お腹いっぱい」と言いながら「おいしそう」と言って、砂糖をかけて食べてしまった。持参した果物も。

ダイエットは明日からに先送りのようだ。

2005/04/27

観光旅行で人間性が理解できるか


夕方から黄興中路の友誼賓館で、長沙市人民対外友好協会副会長であられる雷楚珠氏の歓迎会に出席。参加者は市役所職員の程・袁・通訳の温氏、学校から範・劉先生と小生の6人。あわび料理がメインだった。

雷氏は、日本からの観光客誘致に期待しておられた。長沙市として愛知万博に参加することなどの話もされた。

私は範・劉夫妻にいろいろご配慮いただき、楽しい日々を過ごしていること。学生が親切で優しくて義理堅いことなどの話をした。

さらに日中間の観光促進や文化交流程度では、文化の理解にはなってもお互いの人間性の理解には繋がりにくい事など話した。すると私の前歴を踏まえ、学校の先生の交流などの促進ができればいいですねとの提案があった。

最後に立派過ぎる長沙市の写真集とCD、記念品をいただいた

2005/05/18

食材の買物は、まず臭いを嗅ぐ




学生と買物に出て5時が過ぎたので、私がおごるから食べて帰ろうと提案したところ、「先生のところで夕飯を作りましょう」ということになった。

スーパーで食材選びがはじまった。ニラの場合、まず臭いをかぎ、茎を爪で押さえて軟らかさや鮮度を確かめる。とうもろこしでは、1本買うために複数のこれはと思うものの皮を全部むき、臭いをかぎ、腐れなど無いか丹念に探し、上部の実の無いところはもぎとる。パンは、においを嗅ぎまわった末に買わなかった。実に徹底した吟味だ。

日本人は「おいしそう」と言うが、中国人は「とてもいい香り」とよく言う。


2005/05/18

5月1日(日) レンガの家・家具・酒も手造り


ゴールデンウイークはホームステイ
連休に郭さんの実家に史さんと3人で向かった。場所は湖南省と広西壮族自治区の省境。お父さんは少数民族の壮族で発電所の管理人、お母さんは漢民族。壮族の言葉はベトナム人に通じ、漢民族には通じない。壮族の娘は漢民族の男性との結婚を願っている。近くに舜皇山森林公園があり、トラや狼が生息している、などの話に引かれたのだ。

5月1日(日) レンガの家・家具・酒も手造り

北京発のT5次列車は7時25分に長沙発の予定であったが、遅れて9:10出発。切符は硬座車の天座(指定座席なし)。満員だから乗せないという駅員の制止を振り切って強引に乗り込んだが、通路も超満員。

永州まで4時間。政情不安の折、列車内では日本語を話さないようにした。車窓から見える家はレンガ造りの切妻か陸屋根だ。土壌はレンガ色の完全なラテライトだ。

永州から先はバスを4回乗り継いだ。最後の乗り物は小型トラックを改造した乗合自動車、砂利道のためクッションが利かない。最後は乗り物がないので2キロくらいの歩きになった。

19:30に到着。お爺さんとご両親の温かい歓迎を受け夕食が始まった。夕飯時、お母さんの手作りという白酒を、お父さんと何回も乾杯した。料理では手造りの塩漬け豚肉燻製がたいへんおいしかった。手作りと言えばレンガ造りの家・ベッド・タンス・サイドボード・箒に至るまでそうだ。どれも言われるまで気づかないほど立派な出来ばえだ。私の寝室は2階のご両親の部屋、清潔な寝具が用意されていた。

新居は1階・2階とも3間あり、それぞれの1間は6×3.6mの約13畳の広さである。1階の中央の間は応接間兼食堂だ。2階の中央の間は居間になっていて、ソフアーがありテレビ・DVD・ステレオなどが置いてある。他の4室は寝室になっている。台所やトイレは旧宅側にある。

夜中にトイレに行くと話したら、「防犯上、夜は階段の戸を施錠するので1階に降りられません。2階のベランダから飛ばして下さい」とのこと。言われるままに飛ばしたら、豚をびっくりさせてしまった。豚さんごめんなさい。

2005/05/18

5月2日(月) 手足の付いたカエルの炒め物



朝霧に山々が煙ったように見える。周囲を見渡したところ、盆地状になっている。郭さんの家は西の山の方から東に向かって傾いた複合扇状地の扇央にあることに気づいた。しかも地下水の浅い扇状地(富山県の礪波平野と類似)らしく、湧水が扇央から扇端まで散在しているため、集落も小集村と散村が扇頂から扇央・扇端まで散在している。

湖南省側から広西壮族自治区側の村に買物に行った。途中で見かけた人々は面長で兄弟のように似た人が多い。帰りに水田の中に造られた古い建物で一休み。「涼亭」と名前の付いているこの建物は、幅2m、奥行き20m、高さ3m、柱と切妻屋根に厚板ベンチだけの建物だ。地主が小作人から年貢米を取り立てた場所だった。地主は革命で殺されたと言う。

昼食に内臓を取出しただけで手足の付いたカエルの炒め物が出た。聞けば、郭さんが家の周りの水田から捕まえてきた新鮮な食材だ。頭から食べてみたが、ほとんど骨だけ。体長の何倍も飛ぶ時に力を発揮する後足には肉が付いていておいしかったが、一匹だけいただいた。

郭さんが「先生、頭を洗いましょう」と言って、中庭に椅子をもって来た。はじめての経験に戸惑いながら椅子に腰掛けると、姿勢を正した状態で頭にシャンプーをつけて入念に掻き回した後、前かがみにしてぬるま湯で洗い流してくれた。

夜あひるが一羽犠牲になった。卵や股肉はご両親も郭さんも自分の箸で私のご飯の上に載せてくれる。親愛の表現だ。

2005/05/18

5月3日(火) 乾杯で杯を飲み干した後




発電所にでかけた。山道では木苺その他の木の実や野バラなど楽しみながら歩いた。発電所は建設中だった。

帰りに扇状地の扇頂で円礫を積んで作った見事な長い塀に気づいたので聞いてみると、旧地主の屋敷だった。畦道ではお茶代わりになる花と、緑の豆腐になるという木の葉を摘んで帰った。お茶になる花は陰干。木の葉は揉んで緑の汁を作り、木灰の灰汁を入れたところ固まり始めた。できた豆腐は緑色のところてんと言った感じ。

今夜も白酒をご馳走になった。お互いに乾杯と言ったら、飲み干して杯の底を見せ合う。これは湖南省の習慣である。今夜は鶏が犠牲になった。ほとんどの料理の味付けは私の口に合った塩味だ。

夜、水田のあちこちでライトが光るので聞いたところ、かえるを取る人だと言う。水田の真ん中の家にしてはカエルの鳴き声の少ない理由がわかった。


2005/05/18

5月4日(水) 日本人と知ったときの反応


早朝から両親も含めて5人で舜皇山森林公園に向かった。家から3キロ歩き、小さなオートバイ乗合やバスを乗り継いだ。途中の丘陵地は銀杏・栗・ポンカンの生産地を目指している様子が見て取れる。

公園の入園料は38元。観光客で中年以上の男性は皮靴、夫人はサンダルかハイヒールの人が多い。周囲の山は雑木林で竹が一番多い。滝を4つ位見て引き返した。時間と共に観光客が多くなってきた。

下山したら、続けて対岸の山に登ることになった。途中の休憩所で一緒になった家族は私が日本人と知ってたいへん驚き、父親が「ようこそ中国に来てくださいました。次に来た時はうちにも来てください」と言って別れた。4つ目の滝はこれまでで一番落差が大きく綺麗な滝だった。帰りの下りは急傾斜のため二人が心配して、「先生、気をつけてください」とたびたび声をかけてくれ、手を引いたり支えてくれたりの世話をしてくれた。靴擦れができたようだ。足裏がおかしくなった。

登山口の町まで降りて昼食。おいしかった。食堂の主人は別れ際に、日本人の私に握手を求めてきた。やさしい人達だ。帰りもオートバイ乗合など乗り継いで帰った。夕食には鶏が犠牲になった。食後気分が良くなるようにと「正気口」という漢方薬を勧めてくれた。本当に細かいところまで気を遣ってくれる。


2005/05/18

5月5日(木) 雷鳴を日本は「ゴロゴロ」 中国は?




足の裏に靴擦れができたため居候だ。昼過ぎにお父さんが山から小さな筍の子を取ってこられた。

夕方は激しい雨と雷鳴。雷鳴を日本人は「ゴロゴロ」と表現するが、中国人には「ホーン、ロン、ロン」と聞こえるらしい。音の表現の違いはどこから来るのだろうか。

野菜料理が好きですと言っておいたが、夕方、またアヒルが犠牲になった。夕食は竹の子料理、里芋の春雨?アヒルの塩煮には頭・口ばしも入っている。足はお父さんがバリバリ食べられた。

2005/05/18

5月6日(金) 中国の若者に感謝


帰る日の朝食時、獣医師が来られ、一緒に白酒をいただく。来客時は朝からでも酒を勧める習慣があるという。

その後お父さんの案内で村内を見て回ることになった。田んぼの畦を伝って行ったお父さんの妹さん宅は、ご主人は医者で小さな雑貨店も営んでおられた。次はお父さんの長男さん宅。近所の大人が集まって、漢字のトランプが始まっていた。「帰りはうちで昼ごはんを食べなさい」と言ってくださった。次は岩山の下の洞穴見学。

次は廃校になった小学校。お父さんはここに通われたが、娘の郭さんは周囲の学校を統合した3キロ先の「連合」の小学校に通ったという。「一人っ子政策」の影響だ。帰りには扇状地の扇端部に見られる特有の泉に立ち寄った。

帰って来たら母親と娘がアヒルを犠牲にして昼食。お父さんと別れの白酒を酌み交わし、お土産にもいただいた。13:00過ぎ「また来てください」の言葉に、感謝の気持ちがこみ上げて困った。

帰りの汽車(火車)も満員だった。郭さんが三人掛け椅子に4人掛ける相談をしたところ、若者がいさぎよく私に席を譲ってくれた。北京の近くの大学に帰る大学生だった。下車の際、史さんの通訳で丁寧にお礼を言った。中国の若者の親切に触れた。

旅行中、私がトイレ行くと必ずどっちかが付いてきて入口で待っていてくれた。最後には2人とも重い荷物を背負ったまま宿舎まで送って来てくれた。気配りと実行力に脱帽、そして感謝。

郭さんのご家族にはたいへんご迷惑をかけたが、多くの中国人の優しさにふれた、得難い体験の旅となった。

2005/05/18

買った衣類はまず洗濯




パジャマを買うつもりで五一大道沿いにあるデパートPARKSON(百盛)にでかけたが無い。トレーニングパンツはいいのが148元であったので買った。郭さんが「高いです。パジャマはスーパーに行きましょう」と言って地下一階にあるアメリカ資本のCarrefour(家楽福)に案内した。あるにはあったが彼女の見立てでは質が良くないというので買うのをあきらめた。

帰ってからトレーニングパンツを着て見せたところ、「洗濯して綺麗なのを着たほうがいいですよ」と注意してくれた。

以前もシャツを買ったとき事務の徐さんにそう言われた事がある。縫製・包装の過程や店頭等でいろいろな人が触っているだろうから汚いというのが理由のようだ。

2005/05/24

薬を食べる


漢方薬は、中国から日本へ5世紀ごろ伝来したといわれている。名称は漢の国から来た薬という日本での造語だろう。本家本元の中国では漢方薬のことを「中葯」といい、漢方薬以外は総称して西葯(ヨーロッパは中国の西に位置するとの考えからか)と言っている。

気管支炎(支気管粘膜炎)の患者に病院が出した薬は、中葯がなんと16種類、西葯が2種類である。

近年、病院の出す中葯は、忙しい患者のためにインスタント食品のように使える粉末・顆粒・丸薬状・液体などが増加しているようだ。薬の飲み方は、これを陶器等のコップに入れ、お湯を注いで溶かし、二回に分けて飲む。薬を飲むことを中国語では「吃葯」と書いて「薬を食べる」という言回しになっている。食べる量の多さから一応納得。ちなみにジュースは「飲む」だ。

普通の患者は、病院から本格的な昔ながらの中葯(おもに草根・木皮の類)そのものを持ち帰るため、大きな荷物になる。これを大きな土びん(土やかん)に詰め、コップいっぱいの水分になるまで煎じ詰めて食べる。大量の薬草を使うため、ここで「薬を食べる」という言い回しに、みょうに納得。

生薬を配合して煎じる方法(煎剤)は今も主流であるようだ。中葯支持者?にとって西葯モドキの中葯なんて、副作用があるようで信用できないのだろう。

私も風邪と下痢でインスタントタイプの中葯にお世話になったが、実によく効いた。

2005/05/24

漢字王国の苦悩




漢字は中国に生れた文字であることはよく知られている。紀元前十数世紀の殷の時代にはすでに用いられていたと言う。

漢字は「日・月・人」など、物の形をかたどった象形文字。「一・二・上・下」などのように抽象的なものの本質的特長を象徴的に記号化して字形にした指事などから発達した表意文字などである。

年配の中国人は嘆く。経済開放以後、想像もできない外来語が増えたと。外来語を漢字で表音的に表したり、本質的性能から表したりする単語が急増しているからだ。現代の中国では多くの漢字が簡体文字になってはいるが、漢字は漢字だ。

私が最初に驚いたのは「アメリカ」という発音が、高校や大学を出た若者に通じなかったことだ。「アメリカ」は「美国」と書いて(メイ グオ)と発音する。「フランス」は「法国」(ファー グオ)、ヨーロッパは「欧州」(オウ ジョウ)だ。

新しい言葉を表音的にした単語の例として、サントリービールは「三得利啤酒」と書いて(サンドーリー ピージウ)と発音する。カラオケは「卡拉OK」(カーラーオケ)、「マクドナルドは「麦当労」(マイダンラオ)、ハンバーグは「漢堡包」(ハン バオ バオ)、サンドイッチは「三明治」(サン ミン ジー)、ピザは「比薩餅」(ピー シャー ビン)である。

本質的性能からパソコンを「電脳」(ディエン ナオ)、エレベーターを「電梯」(ディエンティ)、CDは「激光唱片」(ジー グアン チャン ピエン)である。

漢字王国にも変化が出始めた。街の看板にCD・DVD・IPなどの文字がよく見られる。若者たちの日常会話では「ケンタッキーフライドチキン」を「KFC」(ケイ エフ シイ)と発音し、「激光唱片」はCD(シイ デイ)である。この傾向は今後ますます高まるだろう。

また、中国で造るために外国から新しい工業製品が1台届いたとしよう。中国の生産工場は一つ一つの部品名を中国語(漢字)に翻訳する仕事から始めなければならないのだ。先が思いやられる。

かつて、日本も外国の国名や都市名など漢字で表記した時期があるが、今は現地発音のカタカナ表記のためわかりやすい。ひらがな・カタカナは日本文化が生み出した傑作だと思っている。表音文字で、繊細な表現を可能にした便利でありがたい文字だ。しかい、外来語の多用や外来語的造語の氾濫には一考を要する。

/05/24

言葉は時代と共に

放課後、教室で学生と雑談していたとき、「先生」と言う単語は日本と同じように中国でも学校の教師に対する敬称であったという話が出た。さっそく調べてみたところ1949年の新中国になって「先生」から「老師」を用いるようになったようだ。

今の中国で「先生」は高名な学者・知識人・年長者・高徳の人・医師・外国人に対する敬称だ。また、妻が他人に自分の夫のことを「私の先生は」といい、他人は「あなたの先生は」と使うなど、男性に対する敬称だったりする。

今の中国で「老師」は、学校の教師への尊敬語で、日本語の「先生」に当る。もちろん若い教師でも男女を問わず「老師」である。ここでの「老」は日本語の「ご」や「お」にあたる接頭辞で敬意を表す呼び方だ。だから「老」は、例えば年上の劉さんやいろいろな職業の専門家に対しても、敬意を表する場合に「老劉」と呼びかける。

「小姐」は昔金持ちの娘に「お嬢さん」の意味で使っていた時代があったようだが、新中国になって「娘さん」の意味で使われ、ケ小平の改革解放以後、飲み屋・カラオケ・ホテルなど水商売の女性に呼びかけるときに使う言葉となっているようだ。店員に使った場合、今では不愉快から怒らせる言葉になっているから使わない方がよいと言う。

それではなんと呼べばいいかというと「服務員」が一般的だが、「美女」(mei nu)だとうれしいという。インターネットでは「美眉」(mei mei)と呼びかけるのが流行しているようだ。

便所は厠所(ツォースオ)と勉強したが、上品な言葉として洗手間(シーソージェン)がある。都市部で多く使用されるようになってきたという。日本の「お手洗」に当る。

2005/05/30

柔らかい肉のミイラ?


土曜日の午後、楊さんと彭さんの待つ湖南省博物館に出かけた。東風路に面した烈士公園の一角にあり、たいへん風格のある建築物だ。入場券(一人50元)

館の中心は馬王堆漢墓から出たミイラとその副葬品だ。彭さんが日本語交じりの中国語で一生懸命説明してくれた。

中身はたいへん見応えがあった。紀元前160年の墳墓から軟らかい肉のミイラ?が発見され、手術で生身の内臓を取り出し、プラスチックに閉じ込めて展示されていた。副葬品では超薄手のシルクの衣装など。ミイラと副葬品が収められていた巨大な棺は10畳程度で、柱のような厚みの板からできていて圧巻だった。いずれもたいした技術だ。

世界的に見て,ロンドンのBritish Museumや、西安の兵馬俑には及ばないにしても、博物館としては一級の部に入る内容だと思った。博物館の一部の展示物は日本でも展示したという。

2005/05/30

天下第一村  張谷英



張谷英村は岳陽市(長沙市の北)から東南東に73キロ。バス(中国の農村を走るバスのほとんどは個人経営)は、呼込んで客が集まり次第発車する。途中のどこででも乗り降りできる。「バスが来るぞ」と乗客集めのクラックションを鳴らし続けながら走り、1時間40分程度で村に着いた。

張谷英村は役人だった人が辞めて、1573年から一族で住んだのが始まりという。その後、屋根続きの家を次々に建て増しして、延べ床面積51,000平方メートル。部屋数1732間。家の壁はレンガ造りで、床は土間になっている。屋根を支える柱や神棚風のものは木造だ。60の路地の長さは1,459メートルもあり、まさに迷路だ。206個の開井(屋根を漏斗のようにして雨水を中庭に集める仕掛け)。住民の姓は全員「張」さん。今も生活しているところを、そのまま観光客に解放しているので、昔の農機具や大きな釜のある台所なども見られる。

中国にはこのような村が外にもあったらしいが、今はほとんど残っていない。残った理由としては、村の掟が村を守ったと言われている。重要な決議は約500人収容できる舞台付き講堂で会議を開いた。読み書きを教えた広い場所もある。

テレビと電気が入っている以外は昔のままと言った感じの生活だ。入村料39元。岳陽市〜張谷英村間 バス12元。長沙駅〜岳陽駅間 火車(汽車)硬座普快12元。火車(汽車)新空調硬座特快24元。

この後、岳陽市内の岳陽楼に行った。洞庭湖のほとりの高台に716年呉の魯粛将軍が水軍を訓練する閲兵台として建てたのが始まりで、今の建物は1984年修復。家の概観は古代武士の兜の形。この楼閣は詩人 範仲淹の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」という詩で有名になったという。3階にある杜甫の詩は毛沢東の筆によるもので、小学生は暗誦しなければならなかったようだ。

駅からタクシー10元。参観料46元。

2005/05/31

美容美髪



近くの美容美髪に行った。中国のでは2回目の床屋だ。通訳は胡さんと芦さん。店に入って二人が通訳を始めたところ10人余りのスタッフの間に、ちょっとしたパニックが起こった。外人が来たというわけだ。やがて落ち着き、服務員の女性が「洗髪からするが洗髪台に寝る方式と椅子に座ったままの方式のどちらを選ぶか」と聞いたので、椅子を選んだ。念入りにシャンプーしながら、「強くないか」とか、洗髪台でシャンプーを洗い流す際も、「お湯の温度はどうか」と聞いた。たいへん気をつかってくれた。

また、最初の椅子にかえって按摩が始まった。そういえば床屋兼美容院は、どこも服務内容の一つに按摩が入っている。通訳が「この人は按摩が好きです」と伝えたため、頭から肩、背中は全面。手首を取って腕の付け根の回転。これは強烈だった。肱の屈伸、手首の回転と圧迫、手のひらは生命線に沿って爪を立て、引っかいて全面圧迫。指は一本一本の腹側に爪を立てて引っかく。さらに指の一本一本を引っ張って鳴らすなど、相当の時間を掛けた。

席を換えて私の整髪は店長が担当した。男性を中心にベテランが美容美髪本来の仕事、若い女性は洗髪と按摩と分業しているのに気づいた。仕事のない店員はお客の座る洗髪用椅子に退屈そうに腰掛けておしゃべりしている。店長は髪を染めませんかと聞いてきたが断わった。

散発は電気バリカンを使ってやった。通訳の2人が入念に点検し、クレームを付けたため一箇所ハサミを使った。最後にもう一度洗髪しておしまい。表には20元と書いてあったので20元札を出したところ、5元お釣りをくれた。店内を撮影してよいかと聞くと、気前よく了解してくれた。撮影の様子は全員注目。

服務員が通訳から「また来てください」の日本語を習って練習していたが、私が店を出るとき、声はなかった。外人に声をかけるには勇気がいるのだ。